戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

椋梨 むくなし

 沼田小早川氏の有力庶子家・椋梨子氏の本拠地。現在の広島県三原市大和町椋梨。椋梨氏の居城である堀城の周辺には、屋敷地や市場、寺院などがあったと推定されている。

小早川庶子家・椋梨氏

 椋梨を本拠とした椋梨子氏は、建暦三年(1213)に小早川景平から沼田新荘地頭職を譲られた小早川季平(景平の子)に始まる*1(「小早川家文書」)。季平の系統は新荘小早川氏とも呼ばれ、その本家は椋梨村および和木村の一分地頭職を保留して椋梨子氏と称した。

 また椋梨子氏は小田、和木、大草、上山等の新荘諸村に一族を配置し、そこから在地名を名乗る小田氏、和木氏、大草氏、上山氏らの庶子家が生まれた。彼らは、本家である椋梨子氏を中心に結束した*2

 室町期*3の「沼田小早川氏一族知行注文」によれば、椋梨氏は400貫文の所領規模であり、これは土倉氏と並んで一族中で最も大きい。ついで椋梨子氏庶子家の小田氏が370貫文、惣領家庶子家の梨子羽氏が350貫文であった。

椋梨氏本拠の景観

 椋梨子氏の居城である堀城は、椋梨川に沿った細長い椋梨盆地中央部の丘に構築された。城の東側には深い濠が設けられ、その外側の平坦地は「次郎丸屋敷」と呼ばれ、平時の屋敷地があったとみられる。堀城と谷を隔てた西側には、「太郎丸屋敷」、「四郎丸屋敷」、「五郎丸屋敷」と呼ばれている低い丘が延びており、ここにも屋敷を構えていたようである。

 堀城に通じる南北の道は「馬場」と呼ばれ、これに交わる東西の古道は市道と呼ばれる地点で曲がっている。その西に「市の上」、東に「下市」「市じり」「市河」の地名が残り、ここを中心に市場があったと推定されている。市頭にあった胡社は、現在が別の場所に移されている。

 城の東南の低い丘の上には、椋梨子氏の菩提寺とみられる学応寺があった。現在、丘の東麓に宝篋印塔や石塔等の墓地があり、「山門」の地名が残っている。椋梨の寺院として、天正九年(1581)の村山檀那帳には、覚王寺、廣宗庵、修善坊の寺院がみえる。また吉舎大慈寺宗綱語録に、沼田庄椋梨郷の琉璃山加佑禅寺の薬師如来開光供養に関する記述がある(「大慈寺文書」)。

手工業と河川水運

 仁治四年(1243)二月の「安芸沼田新荘方正検注目録写」には、椋梨子と乃良に弓を年貢とする宿人田があり、弓作りの技術者が多数いたことが分かる(「小早川家証文」)。椋梨子には、「皮染給」も記載されており、皮革技術者が存在していた。

 また康元元年(1256)、沼田新荘を治める小早川国平(季平の子)が、檜三千本を借上人に売り渡そうとしていたが、洪水で下流に流出。沼田川下流を支配する惣領家・小早川茂平に没収されるという事件が起こっている(「小早川家文書」)。椋梨を含む沼田新荘で、既に商取り引きが行われていたこと、および木材が河川を通じて沿岸部に運ばれていたことがうかがえる。

参考文献

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堀城とその周辺の遠景。堀城の周辺に城主や家臣の屋敷地があり、城の東南方向(画面左奥方向)の丘に、菩提寺とみられる学応寺があったという。

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堀城主郭から東方向を見る。ソーラーパネル辺りに濠があったか。

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東方向から堀城を見る。

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北東方向からの堀城の近景。

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椋梨川にかかる橋のたもとに鎮座する恵比須社。かつて「市頭」にあった胡社が移されたものという。

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椋梨川。堀城や市場などは、椋梨川南岸に形成された。

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椋梨八幡神社

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学応寺があった丘の東麓の墓地。五輪塔や宝篋印塔が残る。

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学応寺跡の墓地に残る五輪塔や宝篋印塔。

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学応寺跡の墓地の五輪塔。少し大きい。

*1:季平の兄で惣領の茂平は、建永元年(1206)に沼田本荘および安直郷地頭職を父景平から譲られている。

*2:例えば嘉吉二年(1442)十一月、椋梨氏を盟主とする新荘系の庶子家が互いの協力関係を確認する契約を結んでいる(「小早川家証文」)。

*3:大草氏の名があることから、遅くとも宝徳三年(1451)までの作成になると考えられる。