沼田小早川氏庶子家の上山氏の当主。官途名は安芸守。出家して聖玖を号した。本家にあたる椋梨子氏を盟主とした一揆に加わり、惣領家に対抗した。
上山氏
上山氏は、沼田小早川氏の有力庶子家・椋梨子氏の分家にあたる。鎌倉末期頃に和木為平(椋梨子小早川国平の次男)の子信平が沼田新荘の上山(現在の東広島市河内町宇山)に移ったことに始まる。南北朝初期、沼田小早川氏惣領家は足利尊氏方(北朝方)であったが、上山氏の信平・高平父子は後醍醐天皇方(南朝方)となり、備後国や安芸国で北朝方と戦ったことがある。
室町期*1の「沼田小早川氏一族知行注文」に、上山氏は75貫文の所領規模であったことがみえる(「小早川家文書」172)。なお同史料では、椋梨子氏は400貫文、小田氏は375貫文、大草氏は300貫文、和木氏は75貫文の知行であった。
沼田新荘の一揆契約
永享三年(1431)二月十日、上山景高は椋梨子氏に対し契約状を提出(「小早川家文書」104)。同じく椋梨子氏の分家である和木範平や大草持範も、同日付で椋梨子氏に契約状を出している(「小早川家文書」105・106)。沼田新荘の小早川庶子家が、椋梨子氏を中心に一揆契約を結んだものと考えられる。
この契約では、公方(将軍)からの公事や守護役の賦課、沼田小早川惣領家の大事に際しては相談して対応にあたること、「契約衆」が他人に合力する際は共に合力を行うこと、沼田小早川惣領家から兄弟親類に扶持が与えられそうになった場合は同心して断ること、などを取り決めている。
惣領家の混乱
永享五年(1433)、沼田小早川惣領家では当主の小早川則平が死去。則平の子の持平と熈平による家督争いが起こる。永享十二年(1440)六月、将軍足利義教から小早川熈平に対し、兄持平の知行分を充行うとの御教書が出され、ようやく決着がついたかにみえた(「小早川家文書」35)。
しかし1年も経ていない嘉吉元年(1441)三月、義教は「正体無し」として熈平を廃し、家督を竹原小早川盛景に与えることを決定。沼田小早川庶子家16家に通知した。この宛先の一つに上山安芸守(景高)がみえる(「小早川家文書」81)。
結局、同年六月の嘉吉の変により足利義教が死亡したためか、翌年の嘉吉二年(1442)十月、幕府によって改めて則平一跡を熈平が領知すべしとの上意が発せられた(「小早川家文書」37)。十一月、持平方の親類・被官人が要害に楯籠ったが、幕府の命令を受けた備後守護・山名氏が芸備両国の国人を動員してこれを制圧した(「小早川家文書」)。
嘉吉二年の一揆契約
小早川持平方が討伐される直前の嘉吉二年(1441)十一月十六日、沼田新荘の小早川庶子家は衆中の結束を定めた一揆契約を締結*2。新荘の盟主である椋梨子氏に提出された連署契約状には、上山安芸入道聖玖(景高)の名もみえる*3(「小早川家文書」460)。この頃には景高が出家していたこともうかがえる。
上記の一揆契約は、持平方に加担し、惣領の熈平に対抗する目的で形成された可能性が指摘されている。というのも、嘉吉二年の一揆契約に加わっていた大草氏が、宝徳三年(1451)九月の沼田小早川氏庶子家の連判契約状(「小早川本荘新荘一家中連判契約状」)に名前が見えなくなっており(「小早川家文書」109)、この頃には没落していたことがうかがえる。所領の大草村も惣領家に没収されていたらしい*4。
なお、上記の「小早川本荘新荘一家中連判契約状」には、上山賢高が署名している*5。この頃には景高は家督を賢高に譲っていたことが分かる。既に没していたのかもしれない。
参考文献
- 岸田裕之「室町期沼田小早川氏の惣庶関係と領域支配」(『大名領国の構成的展開』 吉川弘文館 1983)
- 三原市役所 編 『三原市史 第一巻 通史編一』 1977
- 河合正治 「小早川氏の発展と瀬戸内海」(『中世武家社会の研究』 吉川弘文館 1973)
*1:大草氏の名があることから、遅くとも同氏の没落が分かる宝徳三年(1451)までの作成になると考えられる。
*2:内容は、この衆中の一人の大事については各人の大事と考えて協力すること、もし惣領家から聊かでも非分の子細を申されたならば同心して嘆願すること、の二点。
*3:上山景高の他は、大草駿河守持範、和木右京亮範平、野浦美濃守守久、清武遠江守則直、乃美三郎美平、小田出雲守景範、秋光駿河入道暁秀が署名している。
*4:康正元年(1455)十二月の小早川熈平自筆所領目録に、新たに「大草村」が加えられている(「小早川家文書」)。
*5:賢高以外の署名は、乃良景久、土倉沙弥茂秀、船木保平、小泉之平、生口守平、梨子羽熈景、椋梨子利平、小田景信、浦氏安、乃美員平、清武則直、秋光景茂。