戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

梨子羽 熈景 なしわ ひろかげ

 沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。仮名は又四郎。時春の子で、元位の父か。宝徳三年(1451)の沼田小早川庶子家による連判契約に署名した一人。

梨子羽氏と初代・時春

 梨子羽氏は、沼田小早川氏の庶子家の一つ。室町期とされる史料には、沼田荘内の梨子羽郷北方に、350貫文を領していたことがみえる。居館は梨子羽郷北方の内、現在の三原市本郷町上北方の字土居岡にあったと推定されている。

 「小早川家系図」によると、沼田小早川春平の三男・時春から始まる。吉福寺(現在の三原市本郷町上北方)*1に安置される近世の位牌によると、時春は文安四年(1447)十一月に没した。熈景は、この時春の子に比定される。

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惣領家の混乱

 永享十二年(1440)四月、熈景は頼春法印の勧めで、梨子羽郷内の楽音寺(三原市本郷町南方)に「梨子羽郷北方下友行内鹿田原三反」を寄進している(「楽音寺文書」)

 同年六月、将軍足利義教から沼田小早川惣領家の熈平に対し、兄持平の知行分を充行うとの御教書が出された(「小早川家文書」)。当時の惣領家では、永享五年(1433)の小早川則平死後、則平の子の持平と熈平による家督争いがあったが、この熈平への安堵で決着したかにみえた。

 しかし1年も経ていない嘉吉元年(1441)三月、義教は「正体無し」として熈平を廃し、家督を竹原小早川盛景に与えることを決定。沼田小早川庶子家16家に通知した。この宛先の一つに梨子羽又四郎(熈景)がみえる(「小早川家文書」)。

 結局、同年六月の嘉吉の変により足利義教が死亡したためか、翌年の嘉吉二年(1442)十月、幕府によって改めて則平一跡を熈平が領知すべしとの上意が発せられた(「小早川家文書」)。十一月、持平方の親類・被官人が要害に楯籠ったが、幕府の命令を受けた備後守護・山名氏が芸備両国の国人を動員してこれを制圧した(「小早川家文書」)。

庶子家の結束

 宝徳三年(1451)九月、沼田本荘および新荘の庶子家が集まり、連判で契約を取り交わした*2。梨子羽熈景も署名している*3

 内容は、各庶子家の一族親類や被官人たちが直接惣領家へ奉公することを停止させることであり、もし惣領家がこれを許容するときは、一同から惣領家に申し入れを行うとしている。梨子羽氏含む庶子家は、惣領家による人材引き抜きを強く警戒していたことが分かる。また惣領が無理なことを言ってきた場合も、一同で申し入れすることが決められている。

幕府と大内氏の対立

 寛正二年(1461)四月、幕府は周防大内氏の安芸国における重要拠点である安芸東西条を取り上げ、武田信賢に渡すことを決定。細川勝元は、小早川熈平と宮中務丞を打渡使節に任じた(「小早川家文書」)。

 六月、幕府は両名に「もし抵抗する者がいたら、幕府に報告せずに現地に赴いて打渡を実行せよ」と強硬な指示を与えた(「小早川家文書」)。また熈平に対しては、周防(大内氏の本拠)への下向に際し、同行に異議がある一族がいたら、そのリストを提出するよう命じている(「小早川家文書」)。

 十月、小早川熈平は周防山口に下向するため、家中に役銭を掛けた。梨子羽氏は他の庶子家とともに20貫文を負担している*4(「小早川家文書」)。

 この結果、安芸東西条は武田方の手に渡ったらしい。しかし大内氏は反撃に転じ、東西条の拠点・鏡山城広島県東広島市西条町御園宇)に大内方の安芸国人である野間氏、阿曽沼氏、平賀氏、竹原小早川氏の軍勢を差し向けた。これに対し沼田小早川氏は、大内方の牽制の為か「後攻」と号して竹原小早川氏の本拠地に侵攻。一族や被官に負傷者を出しながらも、山田対馬守らを討ち捕る戦果を挙げた(「小早川家文書」)。

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 しかし寛正六年(1465)六月になると、幕府は大内氏の訴えを認めて東西条を大内氏に返付することを決定した(「蜷川家文書」)。幕府の方針転換の理由は不明ながら、当時、幕府の重鎮・細川勝元が、伊予河野氏庶子家・河野通春を討伐するため、大内氏も動員しようとしていたことと関わりがあるともされる。

伊予出兵

 伊予国では長年、伊予河野氏惣領家の河野教通と庶子家・河野通春の対立が幕府の介入を受けながら続いていた。沼田小早川氏も無関係ではなく、文安元年(1444)四月には、河野教通への援軍として出陣するよう畠山持国から命じられている*5

 幕府は、畠山持国管領の時は河野教通を支援し、細川勝元管領就任時には通春を支援していた。このため教通と通春の両者はしばらく一進一退であったが、康正元年(1455)十二月、細川勝元が河野教通の守護の地位を剥奪したことから、通春方が優勢になったとされる。しかし寛正五年(1464)頃から細川勝元と河野通春が不和となった。

 寛正六年(1465)六月、沼田小早川熈平に対して、河野通春討伐の為、一族親類を率いて細川勝元に合力するよう幕府から命令が下った(「小早川家文書」)*6。沼田小早川氏では、庶子家から土倉氏と梨子羽氏が出陣。八月、土倉民部少輔と「梨子羽舎弟」が伊予に在陣していることを細川勝元が熈平に賞している(「小早川家文書」)。「梨子羽舎弟」は、梨子羽氏当主の弟を指すとみられるが、当時の当主は熈景のままか、既に元位に継承されていたかは不明。

 細川勝元による河野通春討伐は、しかし周防大内氏が通春支援にまわったため、不利な状況となった。十月、勝元は毛利豊元に対し、「新介(大内政弘)猶ほ以て猛勢合力候の間、当方勢悉く打ち散じられ候」と戦況を報告している(「毛利家文書」)。梨子羽氏も出陣した河野通春討伐は、失敗に終わった。

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参考文献

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畑木山城(梨羽城)主郭から見た梨子羽の里。梨子羽氏居館があったと推定される字土居岡は、画像中央のソーラーパネルの辺り。

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寄宮神社(八幡宮)。梨子羽氏居館があったと推定される土居岡の東に位置する。文安四年(1448)の創祀と伝えられているので、熈景が創建に関わったのかもしれない。

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寄宮神社から見た土居岡(ソーラーパネルの辺り)。土居岡の西(画面奥方向)に接して「長殿」という地名が残っており、ここが梨子羽氏一族の居館だった可能性があるという。さらに西(画面奥方向)の山裾には「岡見堂」という字名が残り、館に付属する仏堂(「岡の御堂」という名称か)であったと推定されている。

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慶長三年(1598)に再建された楽音寺本堂。永享十二年(1440)四月の楽音寺への寄進が、熈景の史料上の初見とされる。

*1:梨子羽時春が嘉吉年間(1441〜1444)に創建したと伝えられる。

*2:椋梨氏を中心とする新荘の庶子家は、嘉吉二年十一月にも相互契約を行っている。

*3:熈景以外の署名は、乃良景久、土倉沙弥茂秀、船木保平、小泉之平、生口守平、椋梨子利平、小田景信、上山賢高、浦氏安、乃美員平、清武則直、秋光景茂。

*4:乃美氏が25貫文と最も多く、次いで20貫文の梨子羽、生口、土倉、椋梨子、小田。15貫文が浦、小泉、船木、秋光。

*5:この時は、出陣が遅れていたらしく、「一族以下が未だ出陣していないのは、全く良くないことだ。既に各所で合戦が始まっている以上、今すぐ進発せよ。」と強い調子で命じられている。

*6:同様の討伐命令は、伊予の大野氏や周防の大内氏、安芸の毛利氏、石見の出羽氏らにも出されている。