沼田小早川氏の庶子家である土倉氏の当主か。官途名は民部少輔または民部大輔。15世紀中ごろから後半にかけて、沼田小早川氏の軍事行動で活躍した。
沼田小早川氏庶子家・土倉氏
土倉氏は、沼田小早川春平の弟・夏平を祖とする沼田小早川氏の庶子家。南北朝後期に惣領家から分出されたと考えられている。夏平が沼田庄内土倉村(三原市大和町徳良)に居住したことから、土倉氏を名乗ったと推定される。大崎西庄(大崎上島町のうち木江・沖浦・明石)の地頭職も有し、大崎下島の大条浦にも所領を得ていた。
遅くとも宝徳三年(1451)までに作成された「沼田小早川氏一族知行分注文」では、土倉氏は椋梨氏と並んで400貫の所領規模をもっており、庶子家の中では最も大きかった。
なお宝徳三年(1451)九月、沼田本荘および新荘の庶子家が集まり、連判で契約を取り交わしている。この時、土倉氏は沙弥茂秀が署名しているので*1、民部少輔が家督を継いだとすれば、この後のことと考えられる。
幕府と大内氏の対立
寛正二年(1461)四月、幕府は周防大内氏の安芸国における重要拠点である安芸東西条を取り上げ、武田信賢に渡すことを決定。細川勝元は、小早川熈平と宮中務丞を打渡使節に任じた(「小早川家文書」)。
十月、小早川熈平は大内氏の本拠である周防山口に下向するため、家中に役銭を掛けた。土倉氏は他の庶子家とともに20貫文を負担している*2(「小早川家文書」)。
この結果、安芸東西条は武田方の手に渡ったらしい。しかし大内氏は反撃に転じ、東西条の拠点・鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)に大内方の安芸国人である野間氏、阿曽沼氏、平賀氏、竹原小早川氏の軍勢を差し向けた。これに対し沼田小早川氏は、大内方の牽制の為か「後攻」と号して竹原小早川氏の本拠地に侵攻。一族や被官に負傷者を出しながらも、山田対馬守らを討ち捕る戦果を挙げた(「小早川家文書」)。
しかし寛正六年(1465)六月になると、幕府は大内氏の訴えを認めて東西条を大内氏に返付することを決定した(「蜷川家文書」)。幕府の方針転換の理由は不明ながら、当時、幕府の重鎮・細川勝元が、伊予河野氏庶子家・河野通春を討伐するため、大内氏も動員しようとしていたことと関わりがあるともされる。
伊予出兵
伊予国では長年、伊予河野氏惣領家の河野教通と庶子家・河野通春の対立が幕府の介入を受けながら続いていた。沼田小早川氏も無関係ではなく、文安元年(1444)四月には、河野教通への援軍として出陣するよう畠山持国から命じられている*3。
幕府は、畠山持国が管領の時は河野教通を支援し、細川勝元の管領就任時には通春を支援していた。このため教通と通春の両者はしばらく一進一退であったが、康正元年(1455)十二月、細川勝元が河野教通の守護の地位を剥奪したことから、通春方が優勢になったとされる。しかし寛正五年(1464)頃から細川勝元と河野通春が不和となった。
寛正六年(1465)六月、沼田小早川熈平に対して、河野通春討伐の為、一族親類を率いて細川勝元に合力するよう幕府から命令が下った(「小早川家文書」)*4。八月、土倉民部少輔と「梨子羽舎弟」が伊予に在陣しており、細川勝元がこれを賞している(「小早川家文書」)。
細川勝元による河野通春討伐は、しかし周防大内氏が通春支援にまわったため、不利な状況となった。十月、勝元は毛利豊元に対し、「新介(大内政弘)猶ほ以て猛勢合力候の間、当方勢悉く打ち散じられ候」と戦況を報告している(「毛利家文書」)。
応仁の乱
応仁元年(1467)五月、京都で応仁の乱が勃発する。沼田小早川氏は細川勝元率いる東軍に属した。当主の熈平は、六月には上洛の意思を勝元に伝えているが、この時は国元に留まって西軍の大内氏への対応を命じられている(「小早川家文書」)。
一方で沼田小早川勢は、九月七日には誓願寺の北で敵方と交戦。熈平被官の名井彌五郎、横見与市左衛門尉および土倉民部大輔被官の野間大蔵左衛門尉が負傷した(「小早川家文書」)。土倉民部大輔は民部少輔と同一人物とみられる。またその被官は、伊予国野間郡の豪族・野間氏の出身である可能性が指摘されている。
なお熈平は十月三日に白雲の構で合戦して親類被官人が死傷しており(「小早川家文書」)、これまでには上京していたことが知られる。
備後国馬木陣
文明三年(1471)、備後国では東軍は劣勢に立たされていた。東軍の備後守護・山名是豊は四月には京都から備後に着陣。小早川熈平も帰国して八月頃には成滝城(尾道市吉和町鳴滝の鳴滝山城か)を守っていた(「三浦家文書」)。
閏八月、栗原尻合戦にて、沼田小早川勢は親類や被官人が死傷する損害を受ける(「小早川家文書」)。九月、西軍の山名持豊は同陣営の備後国人・山内豊成に「国の儀ことごとく落居」したとして、安芸国に発向して大内氏に協力するよう命じており(「山内首藤家文書」)、東軍劣勢のほどが知られる。
十二月九日、小早川元平(熈平の嫡子)と毛利元家(安芸国人・毛利豊元*5の弟)は備後国馬木(神石郡神石高原町牧か)に出陣。土倉民部大輔も子の彌五郎を連れて参陣していた。そこに西軍が押し寄せて東軍は大敗し、民部大輔・彌五郎父子およびその被官・田坂越中守は討死した。他にも毛利元家被官の井上主水や一族・被官人の多くが討死した(「小早川家文書」)。
土倉民部大輔の跡は、土倉継平が継いだとみられる*6。
参考文献
- 岸田裕之「室町期沼田小早川氏の惣庶関係と領域支配」(『大名領国の構成的展開』 吉川弘文館 1983)
- 広島県 編 『広島県史 中世 通史Ⅱ』 1984
- 河村昭一 『安芸武田氏(中世武士選書)』 戎光祥出版 2010
- 山内譲「応仁の乱と守護勢力の分裂」(『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998)
- 東京大学史料編纂所『大日本古文書 家わけ第十一 小早川家文書之一』 東京大学出版会 1979
- 東京大学史料編纂所 『大日本古文書 家わけ第十一 小早川家文書之二』 東京大学出版会 1997
- 愛媛県史編さん委員会 編 『愛媛県史 〈資料編 古代・中世〉』 愛媛県 1983
*1:土倉沙弥茂秀以外の署名は、乃良景久、梨子羽熈景、船木保平、小泉之平、生口守平、椋梨子利平、小田景信、上山賢高、浦氏安、乃美員平、清武則直、秋光景茂
*2:乃美氏が25貫文と最も多く、次いで20貫文の梨子羽、生口、土倉、椋梨子、小田。15貫文が浦、小泉、船木、秋光。
*3:この時は、出陣が遅れていたらしく、「一族以下が未だ出陣していないのは、全く良くないことだ。既に各所で合戦が始まっている以上、今すぐ進発せよ。」と強い調子で命じられている。
*4:同様の討伐命令は、伊予の大野氏や周防の大内氏、安芸の毛利氏、石見の出羽氏らにも出されている。
*5:毛利豊元は東軍方だったが、文明三年(1471)閏八月、西軍方に寝返っている(「小早川家文書」)。
*6:延徳三年(1491)三月、沼田小早川庶子家が連名で小早川敬平(元平)に申し入れを行った際、土倉継平の署名が見える(「小早川家文書」)。