竹原小早川氏の居城・木村城の城下集落。本項名称は当時のものではなく、便宜的な仮称*1。青田山麓(現在の青田地区諏訪迫)の領主居館を中心に、寺社や町場、鍛治、防衛設備、家臣居館等があったとみられる。
都宇竹原荘と小早川氏
竹原小早川氏の本領となった都宇竹原荘は、元来は京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)の荘園だった。寛治四年(1090)、まず竹原荘が成立し、鎌倉初期までに竹原荘に隣接して都宇荘が成立した。このことから竹原荘は本庄、都宇庄は新庄とも呼ばれた。
鎌倉期、安芸沼田の小早川茂平は、承久の乱の功績により都宇竹原荘の地頭に補任された。仁治元年(1240)閏十月、賀茂社の「預所末宗」が、小早川の地頭代が百姓を「損亡」しているとして訴えており(「小早川家文書」)、領家・賀茂社と地頭・小早川氏の対立があったことが分かる。
木村城の東の末宗の谷は、上記の「預所末宗」の名に由来する。中世、この末宗の谷が荘園の政治的な中心地であったことがうかがえる。荘園の年貢は、この谷から山を越えて竹原の港に運ばれていた。
本領の没収と回復
正嘉二年(1258)七月、小早川茂平は四男の政景に「都宇竹原両荘地頭公文検断并竹原惣荘検校職」を譲与し(「小早川家文書」)、竹原小早川氏が成立した。しかし永仁五年(1297)、幕府は小早川景宗(政景の子)の本領を没収し、建長寺の造営料所に寄進してしまう。
竹原小早川氏が都宇荘を回復したのは、建武五年(1338)であった。竹原荘にいたっては応永十三年(1406)の小早川弘景の代まで知行していることが確認できない。
竹原小早川氏の本拠
竹原小早川氏の木村城下集落は、現在の竹原市東野町青田地区諏訪迫を中心に形成されていった。同地の通称竹原小早川家墓地には、14世紀後半にさかのぼる宝篋印塔があり、竹原荘を回復した小早川弘景あるいはその父仲義の時代に立てられたとみられる。
江戸期の『芸藩通志』によれば、この墓地に隣接して「長福寺跡」があった。墓地は長福寺の墓所であったと推定される。小早川氏の「正月祝儀例書写」では、新年の礼物の有無にかかわらず、「長ふく寺」」に対して当主の弘平が30疋を返礼する習わしがあり(「小早川家文書」)、同氏にとって大切な寺の一つだった。
長福寺跡に隣接して現在の手島屋敷があり、ここに小早川氏の居館であったと推定されている*2。屋敷の正面には居城である木村城があり、その間に広がる水田は、古くは「馬場垣内」と呼ばれていた。館の前に馬場が広がっていたことが由来とみられる。
「馬場垣内」の北側に「古町」(字「町田」)の地名がある。木村城下の町場であったと推定される。古町の北には「金九郎」と呼ばれる一画があり、円正輔貞という鍛治が住んで金糞を捨てていたという(文政の書出帳)。ここに領主に直属する鋳物師集団がいたとみられる。
また手島屋敷(小早川氏の居館)の北東方向(木村城の北方向)、つまり鬼門の方角に、竹原小早川氏の氏寺と伝えられる法浄寺があった。嘉吉三年(1443)八月、小早川弘景は「法浄寺はつはしんかう(信仰)申さるへく候、ふさた(無沙汰)あるましく候」と置文に記しており(「小早川家文書」)、同氏にとって最も大切な寺であったことがうかがえる。
木村城周辺の交通路
木村城の東の末宗の谷からは、山を越えて正部(竹原市新庄町字正部)を経由すると竹原の「古市」に至る。中世、古市の近くまで海が入り込んでおり、竹原の港もこの付近にあったと推定されている。荘園年貢も、この道を通って竹原の港に運ばれたとみられる*3*4。末宗の谷は、荘園と港を結ぶ出入口のところに位置していた。
木村城の北、現在僧都八幡宮が鎮座する小山は、沼田からの道と、小梨からの道とが、旧山陽道から南下する道と合流する要衝に位置する。この小山から東側の山裾にある「関の堂」という地蔵堂までは、かつて土手があったとされる。この土手は沼田方面から木村城への道を遮るようにあり、城下集落を守るために築かれた土塁であった可能性が指摘されている。なお、室町期の竹原小早川氏にとって最も警戒すべき相手は、沼田小早川氏であった*5。
青田地区の青田の谷は、早くから開発が進んだ地域だった。かつては谷奥のサエモン池を通って尾根を越えれば西野(竹原市西野町)に抜けられたという。谷の入口付近には竹原小早川一族の有力者・包久氏が屋敷を構えて、谷を押さえていたとも推定されている。
また南西にある在屋の谷(竹原市東野町)を経由すると、山越えで木谷(東広島市安芸津町木谷)に抜け、三津へと至る。その距離、約2キロメートル。木谷には、竹原小早川氏一族の木谷氏が置かれている。
参考文献
- 舘鼻誠・専修大学日本中世史ゼミ 「谷から広がる中世ー安芸国都宇竹原荘を行く①」(『専修史学』第32号 専修大学歴史学会 2001)
- 舘鼻誠・専修大学日本中世史ゼミ 「石塔の語る中世ー安芸国都宇竹原荘を行く②」(『専修史学』第33号 専修大学歴史学会 2002)
- ブログ『中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元』
*1:集落の中心があった竹原荘東野村について、文政ニ年(1819)の「国郡志下調書出帖」は、「往古は本庄村」と呼ばれたとしている。
*2:文政二年(1819)の「国郡志御用ニ付下しらべ書出帖」では、通称小早川墓地一帯を「殿様建テ」としている。「建テ」は館(たて)の当て字とみられる。墓地の空間は、領主の館を建てるほどの面積が無いので、手島屋敷を含む辺り一帯を指す呼び名であった可能性があるという。
*3:貞応二年(1223)六月、都宇竹原荘の地頭得分に「塩浜地子 三分一」がみえる(「小早川家文書」)。また康安元年(1361)十一月、定林寺が開発した「都宇庄浜新堤田地」の知行が、同寺に認められている(『萩藩閥閲録』巻136)。荘園の領域が末宗の谷を越えて海岸部まで広がっていたことがうかがえる。
*4:賀茂川沿いの道は、江戸後期まで賀茂川が山の間を蛇行しながら流れていたため、不安定なルートだった。賀茂川が現在のような直線的な流れとなったのは、寛政元年(1789)の大洪水を機に行われた瀬替え後のことであるという。
*5:嘉吉三年(1443)八月、小早川弘景は置文の中で「何としても沼田ハ心安ハあるましく候、ゆたん候て、くつろかれ候ましく」と記している(「小早川家文書」)。