戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

竹原 たけはら

 安芸国東西条方面から流れる賀茂川の河口部に位置する港町。中世、安芸国人・竹原小早川氏の外港ともなった。現在とは違い、賀茂川が注ぐ中世の竹原湾は、沖に浮かぶ横島に守られ、小島が点在する波静かな良港であったとみられる。

古市と竹原小早川氏

 文政年間の下市村書出帳にみえる「古市」(現在の中通小学校付近)は、中世に栄えた市の跡と推定され、竹原の湊も市の近くにあったと考えられる。古市の南の市街地は「新開」の名が示すように、江戸期初頭から始まる大規模な埋めて立てによって形成されたもので、中世は古市の近くまで海が入り込んでいた。

 竹原小早川氏の居城である木村城およびその城下集落からは、城の東麓の末宗の谷から山を越えて正部を経由して古市に至るルートがあった。中世、竹原小早川氏の本領である都宇荘・竹原荘の年貢は、この道を通って竹原の湊に運ばれたとみられる*1*2

 竹原小早川氏では、正月の四日になると、当主が年男を連れて「市へくだり」「かいそめ(買初)」に出かけることになっていた(「小早川家文書」)。上記のルートで山を越えて古市に下ったのだろう。また「市のあつかり(預)」という役職も存在していた。

 また嘉吉三年(1443)八月、小早川陽満(弘景)は置文の中で、領内の「徳人共」(富裕な商人とみられる)にねんごろに扶持を与え、一方で「違乱煩いの事」をかたく禁じることを記している。竹原小早川氏はこのように、商人の保護政策を採りつつ、瀬戸内海水運に関わっていったものとみられる。

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毛利領国の主要港

 永禄十一年(1568)十一月、笠岡尾道、三原、忠海高崎、竹原などの津々浦々から毛利氏の軍勢が伊予に向けて出船している。ここで挙げられた地名はいずれも毛利氏領国の重要港湾であり、竹原もこれらに比肩する港町であったことが推察できる。

 16世紀末には、能島村上元吉が毛利氏から竹原の所領を得て、下市に臨む鎮海山城を居城とした。竹原が海賊衆・能島村上氏再起の拠点として位置づけられていたことがうかがえる。

下市の成立

 16世紀になると賀茂川などの河川の吐き出す土砂のため、古市は港としての機能をしだいに失っていったとみられる。かわって同世紀後半頃には、河口部に新たに「下市」が成立した。

 元和五年(1619)、福島正則改易後に入部した浅野氏が、幕府から受け取った「安芸国知行帖」には「下市町屋敷」が記されており、既に福島時代には下市に発展した町場があったことが分かる。

参考文献

  • 竹原市史』第一巻 1972
  • 谷沢明 『瀬戸内の町並み』 未来社 1991
  • 舘鼻誠・専修大学日本中世史ゼミ 「谷から広がる中世ー安芸国都宇竹原荘を行く①」(『専修史学』第32号 専修大学歴史学会 2001)

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長生寺への曲がり角。

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笠井邸二階からの竹原の町並み。

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笠井邸の玄関からの眺め。

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竹原の町並み。

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竹原の町並み。

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竹原の町並み。

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竹原の町並み。

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竹原の町並み。

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竹原の町並み。

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西方寺の参道。

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西方寺境内から眺めた竹原の町並み。

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西方寺本堂。

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河野通直の墓と伝えられる石塔。長生寺境内にある。伊予湯築城を離れた通直は竹原に移り、天正十五年に没した。(宝篋印塔の笠部を四つ重ねて一番上に五輪塔の火輪がある)

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長生寺から眺めた鎮海山城跡。

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鎮海山城の麓にある宝篋印塔。伊予松山城攻めで討死した鎮海山城主・村上元吉のものと伝えられている。

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鎮海山城麓の村上元吉の宝篋印塔周辺にある五輪塔の一部。伊予松山城攻めで元吉とともに戦死したものたちの墓と伝えらえる。

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鎮海山城麓にある五輪塔の一部(火輪)。村上元吉とともに伊予松山城攻め戦死した者の墓と推定されている。

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鎮海山城本丸部に残る石積み。

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鎮海山城の頂上部からの眺め。

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竹原氏歴史民俗資料館の裏にある石塔。竹原市新庄町にあった竹原小早川氏の菩提寺、法浄寺跡から出土したもの。真ん中の宝篋印塔は14世紀中ごろのものと推定されている。

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竹原市下野町の恵美須神社。中世の古市はこの辺りにあったか。

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恵美須神社近くの旧道。

*1:貞応二年(1223)六月、都宇竹原荘の地頭得分に「塩浜地子 三分一」がみえる(「小早川家文書」)。また康安元年(1361)十一月、定林寺が開発した「都宇庄浜新堤田地」の知行が、同寺に認められている(『萩藩閥閲録』巻136)。荘園の領域が末宗の谷を越えて海岸部まで広がっていたことがうかがえる。

*2:賀茂川沿いの道は、江戸後期まで賀茂川が山の間を蛇行しながら流れていたため、不安定なルートだった。賀茂川が現在のような直線的な流れとなったのは、寛政元年(1789)の大洪水を機に行われた瀬替え後のことであるという。