戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鞆 とも

 瀬戸内海に突出た沼隈半島の東南端する港町。仙酔島や大可島などの島々に守られた良港。瀬戸内海を航行する際の潮待ちに利用され、瀬戸内海航路の要港として栄えた。

鎌倉期の鞆

 鎌倉期、文永十一年(1274)の「善光寺如来造立勧進帳」には鞆に入港した人々への勧進の様子が書き留められており、その繁栄の一端をみることができる。

 また『とはずがたり』には、乾元元年(1302)に備後国北部の和智氏の館を訪れた二条が絵を描くことを申し出て、これに対して和智氏は絵具の調達の為に使いを鞆に走らせ、二条はとんでもないことになったと後悔する、というくだりがある。

 当時の鞆が、絵具などの貴重品も入手可能な場所として備後の人々に認識されていたことがうかがえる。

鞆船の水運

 『兵庫北関入舩納帳』によれば、文安二年(1445)、兵庫北関には計17艘の鞆船が入港し、備後塩1315石を筆頭に米穀類や赤鰯、沼隈半島で生産されたとみられる筵(備後表)350枚を運んでいる。他にも「備後大田庄年貢引付」などの史料により、尾道などから年貢などを積出す鞆船の活動を知ることができる。

  しかし史料にみえる鞆船の数は、尾道 瀬戸田などに比べて多くはない。これは、鞆が潮待ちの港としての側面が強かったせいともみられる。反面、各地から多くの船や人が集い、先述の「とはずがたり」のように様々な品が持ち込まれて取引が行われたと思われる。

 とはいえ鞆には海外へも渡航可能な大型船も所属していた。応仁二年(1468)の『戊子入明記』では、遣明船候補の船の一つに「鞆宮丸 千斛」が挙げられている。

海陸交通の要衝

  天正三年(1575)、上洛のため山陽道を進んでいた島津家久一行は、鞆から船による海路に切り替えている。このとき家久一行は、鞆に到着した後、間をおかずに乗船している。

 このことから鞆を発着する客船は多かったとみられ、瀬戸内を往返する商人や旅人らにとって、鞆が重要な位置にあったことが推測できる。

関連人物

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関連交易品

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参考文献

  • 広島県立歴史博物館 『海の道から中世を見るⅡ 商人たちの瀬戸内海』 1996

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医王寺から眺めた鞆の浦。馬蹄型をした良港であることが分かる。

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鞆に残る江戸時代の商家。

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鞆の浦の港。

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常夜灯まえの広場。

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鞆の常夜灯と雁木。

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鞆に残る江戸時代の商家。

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鞆の白壁の町並み。

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江戸時代に造られ、現在まで残る鞆の波止め。大可島から50間にも及ぶ。