沼田小早川氏の居城・高山城の城下町。沼田荘を流れ瀬戸内海に注ぐ沼田川と山陽道(西国街道)の結節点という交通の要衝に位置する。
高山城
高山城の築城は、鎌倉期の小早川茂平の時代と伝えられるが*1、史料上で存在が確認できるのは南北朝期の小早川貞平の時代からとなる。建武五年(1338)に小早河民部大夫入道相順らが「妻高山の城」に立て籠っており(「忽那家文書」)、文和四年(1355)六月の足利義詮御感御教書写にも「安芸国妻高山合力事」とある(『小早川家文書之二』)。
室町期の応仁の乱では、竹原小早川氏を主力とする西軍方国人衆が高山城を包囲した「高山城合戦」が繰り広げられた。乱の当初は在京していた小早川熈平は、応仁二年(1466)、「在城」の者たちに夜間の「城戸」の開門を禁止させ、昼も開閉に用心するよう申し付けている(『萩藩閥閲録遺漏』巻二ノ二)。この頃には恒常的な城として高山城が機能していたことがうかがえる。
戦国期になると沼田川の対岸に雄高山城(新高山城)も築かれ、小早川隆景の時代には、この城が居城となった。
沼田小早川氏の御館
沼田小早川氏当主の日常の館となる高山城麓の「御館」は、江戸期に「土井」と呼ばれていた現在の本郷小学校敷地にあったと推定されている。文政二年(1819)の「国郡志御用ニ付下調書出帳」の「本郷村」には、「土井上 籠守大明神 一祠」、「同東 具住大明神 一祠」という記載がある。
具住神社は小早川氏に崇敬された神社だったが、元は字「土肥谷」にあって慶長年間に現在地に遷座したと伝えられる(「明治三十五年由緒調査書」)。御館(本郷小学校敷地)の北西には愛宕社(字土肥谷)があり、その立地から御館を守護する神社であったと推定されている。あるいは、具住神社は元はこの場所に鎮座していた可能性もあるという。
東北には、明応三年(1494)に小早川扶平が興平誕生を祈願して建立した香積寺があり、東南には応安年間(1368〜75)に小早川宣平を追善するために貞平が建立したという円光寺がある。
高山の町
高山城下の町場は、御館を南に下った場所に形成されたとみられる。天正九年(1581)の村山檀那帳には、「高山之分」として「まち」の記載がある(「山口県文書館所蔵文書」)。また同史料からは「高山」において小早川隆景夫妻をはじめ、多くの小早川家臣や寺院が献納を行っていることが知られる。その中には三原屋孫衛門尉という人物の名も記されており、沼田川河口部の港町・三原との繋がりが想起される。
その後の江戸初期の寛永十年(1633)頃、沼田川対岸の茅の市から宿駅が本郷に移され、山陽道(西国街道)沿いに新市が町場として発展する*2。また沼田川対岸には「鍛冶屋垣内」の字名も残る。中世には領主に直属する鋳物師集団が存在していたのかもしれない。