神島や片島、横島によって守られた波静かな笠岡湾の、最奥に位置する港町。備中国の西端、備後国との国境のすぐ近くに位置する。南には備讃瀬戸の関門であると同時に塩飽にも通じる笠岡諸島があるなど、海陸の要衝。
国人陶山氏
笠岡は国人領主で幕府奉公衆でもあった陶山氏の本拠であり、同氏の安定した在国支配のもとで発展したとみられる。同氏は文芸活動も活発に行っており、笠岡には西国下向中の連歌師・宗祇や兼載も立ち寄っている。
笠岡の水運
文安二年(1445)の『兵庫北関入舩納帳』によると、この年は3隻の笠岡船が兵庫北関の入港。大麦や穀類、干鯛、材木、神島塩などを運び込んでいる。なお寛正六年(1465)十月、陶山貞隆は笠岡から京都へ干鯛を100贈っており、干鯛が笠岡の特産品であったことがうかがえる。
戦国期には応仁の乱で没落した陶山氏に代わって海上勢力の小早川氏や能島村上氏が進出。戦国後期、小早川氏から能島村上氏の有力者・村上隆重・景広父子に笠岡が譲られている。
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毛利氏の戦略拠点
笠岡は毛利氏領国の重要港湾に位置づけれた。永禄十一年(1568)十二月の乃美宗勝書状によれば、十一月に鞆、笠岡、尾道、三原、忠海、高崎、竹原などの津々浦々から毛利氏の軍勢が伊予に向けて出船している。毛利氏の対織田戦争が激化すると笠岡は同氏の戦略拠点も担うようになり、毛利氏当主・輝元や小早川隆景もたびたび笠岡に入り、軍需物資も多く集積されていたようである。
関連人物
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参考文献

笠岡の西本町のえびす社。流れ造り銅板葺きのしっかりとした小祠。祭礼は毎年、一月十日に「十日えびす」が町内でおこなわれる、という。江戸期の『笠岡遊覧恋の浮雲』では、旅籠や宿屋、茶店が建ち並び、そこに置かれた女性を目当てに旅人や船員が集まって賑わう様子が描かれている。

笠岡の町の前面には、広大な干拓地が広がっている。かつてここは、全て笠岡湾であり、中世の同湾は深く広い入江であった。

古城山稲富稲荷神社。戦国期、笠岡城主の村上氏によって創建された。現在の本殿および拝殿は江戸後期に再建されたもの。

笠岡駅付近の線路沿いには白壁の土蔵が建ち並んでいた。

笠岡の伏越地区の町並み。笠岡から大磯地区へと抜ける街道。

遍照寺多宝塔。江戸初期、笠岡を支配する幕府の備中代官・小堀氏の支援により慶長十一年(1606)に落慶した。

県道34号西側。この細い路地に入ると古い町並みが残っている。

笠岡の正寿場町地区。江戸期には商家が建ち並んだという。

笠岡の威徳寺に安置されている五輪塔や宝篋印塔 他の石造物群。陶山氏ゆかりのものと推定されている。

西ノ浜の駒口商店(左)と関藤商店(右)。昭和初期の建築。

西ノ浜付近から笠岡城(古城山)を望む。

遍照寺仁王門の梵鐘。室町期の鋳造。永享四年(1432)に備中国津宇群撫河郷隼島(現在の早島)庄丑寅御前の鐘として鋳造された。戦国期、笠岡城主の村上氏が早島から戦利品として持ち帰り、笠岡城で使っていたという。