戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

村上 景広 むらかみ かげひろ

 能島村上家臣。仮名は少輔五郎。官途名は弾正忠、後に八郎左衛門。村上隆重の子。景則の父。東吉種の弟。妻は小早川家臣・椋梨景良の娘。父隆重とともに備中笠岡に進出して以後は、主家を支えつつも小早川警固衆としても活動するようになる。

木津川口海戦での活躍

 景広は、天文二十三年(1554)に村上隆重の子として生まれた。元亀二年(1572)頃に、毛利方の警固衆として活動した微証がある。

 本格的な活動は、天正四年(1576)に大坂本願寺を支援する毛利勢が織田氏の警固衆を破った木津川口海戦から確認できる。合戦に参加した武将の連署注進状に、「少輔五郎景広」がみえる。七、八月には小早川隆景毛利輝元からも感状を得ている。

小早川警固衆としての活躍

 その後、笠岡が毛利氏の東上作戦の基地となったこともあり、小早川隆景のもとで讃岐本吉城攻撃や坂越、英賀など播磨方面での警固活動、備前常山城への援軍、備前庭妹城への兵糧輸送などに、景広が関わっていることが確認できる。

 笠岡を拠点とする隆重、景広父子は、宗家から比較的独立した存在であったとみられる。毛利、小早川氏との関係の中で、景広が実質的に小早川警固衆の一翼を担っていたことがうかがえる。

 『武家万代記』によれば、天正十五年(1587)、島津征伐のために下向してきた豊臣秀吉に対し、景広は小早川隆景の家臣として「御目見」をすませたという。この時には小早川家臣団の一員となっていた。

 その後、文禄の役でも活躍したとされる。しかし慶長二年(1597)に小早川隆景が没すると小早川氏を離れ、毛利氏に仕えた。

細川忠興に仕える

 慶長五年(1600)、毛利氏が関が原で敗れると、隆景遺臣らの召し放ちが図られた。このため景広は、慶長六年(1601)に出奔。豊前細川忠興に仕えた。

 豊前小倉城の石垣からは「村八、大組」「村上八郎左、東組□月八日」などの墨書が見つかっている。これは当時小倉の細川家に仕えていた村上八郎左衛門(景広)が石垣普請の際に書きつけたものとみられている。石垣普請を任されていることから、細川家中での地位は、高かったことがうかがえる。

 慶長十九年(1614)の大坂冬の陣の際には、弓組に属して318人を率いた(「綿考輯録」)。寛永四年(1627)、73歳で死去した。

参考文献

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威徳寺から眺めた古城山。この山に笠岡城が築かれ、景広や父の隆重が在城した。