戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

賀露 かろ

 鳥取平野の中央部を南北に流れる千代川河口部の港町。現在の鳥取県鳥取市賀露町。古代以来、因幡国海上交通・流通の要衝にあった。

「賀露神」の格

 河口の丘陵に鎮座する賀露神社は、『日本三代実録貞観三年(861)十月十六日に「因幡国正六位上賀露神授従五位下」とみえる。さらに元慶二年(878)十一月十三日には従四位上に昇っている(『三代実録』)。急激な位階上昇の背景には賀露の政治的重要性があったとも考えられている。*1

平安期の賀露の位置

 14世紀に作られた『因幡堂薬師延喜絵巻』によれば、長徳三年(997)、橘行平*2は下向した因幡国で病にかかるが、その際の夢の中のお告げにより「賀留津」の沖で薬師如来像が引き上げられた。行平帰洛後に薬師像は行平邸に飛来。行平は自邸を喜捨して寺としたが、これが因幡堂のはじまりという。因幡と京都を結ぶ海上交通の要地としての賀露の重要性がうかがえる。

 康応元年(1099)、因幡守となった平時範宇部社、坂本社、三島社についで、川沿いに舟で「賀呂社」に参拝している(『時範記』)。内陸と河口付近の賀露を結ぶ河川水運を背景にしての参拝ルートであったと考えられる。

堅田商人の来航

 16世紀前期の『本福寺跡書』には、近江堅田の商人は西は因幡伯耆、出雲、石見にまで赴いて商売をしていたと記されている。堅田商人ら畿内の商人にとって因幡国の海と陸の結節点に位置する賀露の港はとりわけ重要であったと推察される。

鳥取城の戦い

 天正九年(1581)三月、織田氏部将・羽柴秀吉の侵攻に備えるため、石見国より毛利方の吉川経家が「加路」に上陸し、鳥取城に入った(「吉川家文書」)。その後、賀露は鳥取城を包囲する羽柴勢に押さえられている。毛利方は日本海を通じて鳥取城に兵糧を搬入しようとしたが、賀露の沖合に停泊していた羽柴方の船団により阻止されている(「山縣家文書」)。

 寛文十二年(1672)成立の「賀露神社縁起」によれば、天正年間の兵乱の際に賀露の地は兵火に包まれ、人民は離散し、神社も破滅に及んだという。

因幡国舟入之事

 吉川経家とともに鳥取城に籠城した山縣長茂は、寛永二十一年(1644)に記した覚書(「吉川家文書」)の中で「西口は仙大川(千代川)有り、此大河かる(賀露)の湊へ落合、因幡国舟入之事」と記している。少なくとも17世紀初頭には、賀露は因幡国中から船が集まる当国随一の「湊」であったとみられる。

参考文献

f:id:yamahito88:20210725162504j:plain

賀露港から鳥取城方面を望む。

f:id:yamahito88:20210725162533j:plain

賀露神社参道の石階段。

*1:背景には朝鮮半島新羅との緊張関係との関連も指摘されている。新羅の脅威が減じた後の「延喜式神名帳には賀露神の名がみえなくなる。

*2:平安期の官人。寛弘二年(1005)に因幡国司となった。因幡では国衙官人や百姓と対立し、解任された。