隠岐諸島の島後にあり、隠岐国の国府、守護所に直属した港町。隠岐国の水運の中心を占めたと思われる。
隠岐氏の本拠
室町期に西郷の国府尾城に拠城を移した隠岐氏は、戦国期に尼子氏の支援の下で隠岐全域を勢力下においた。西郷はその本拠地として政治的、経済的に重要な地位を占めたと思われる。
隠岐国衙の船所
宝治二年(1248)、隠岐守護・佐々木泰清が、田所義綱に隠岐国の「船所」を沙汰するように命じている。隠岐国衙機関の一つとして、「船所」があったことが知られる。この船所は、隠岐国の年貢を輸送する廻船を管理する国衙の機関であったとみられる。この機関が置かれた場所こそ、国衙の直属の港である西郷であった可能性が高い。
隠岐と日本海航路
文明二年(1470)、京極持清が尼子清貞に「隠岐所々廻舟」の「美保関役」を小浜で徴収するよう命じている。隠岐から京畿へと至る航路として、隠岐‐美保関‐小浜のルートがあったことがわかる。同時に、西郷を含む隠岐の港から、畿内へと海産物などを運んだと思われる廻船が活発に運航していたことも知ることができる。
朝鮮半島との関わり
また隠岐には平安期に渤海や新羅の船が何度か漂着しているなど、古くから朝鮮半島との関係が深かった。応仁三年(1469)、隠岐国の「太守源朝臣秀吉」なる者が朝鮮に遣使をしており、「太守」という名乗りから隠岐氏ではないかともいわれる。偽使の可能性もあるが、隠岐と朝鮮半島との関係が背景にあると思われる。