戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

小浜 おばま

 若狭湾の中央に位置する小浜湾に臨む港町。日本海沿岸地域と畿内市場との結節点、及び京都北側の国際港として大いに栄えた。

地域経済の要所

 小浜には暦応三年(1340)の段階で、年貢などの運送を請負う「問」が存在していた。年貢等の物資の陸揚げ港として、流通上の要所となっていた。

 また宝徳三年(1451)の記録で、遠敷郡太良荘の百姓が、一日でも小浜に出入りできないと生活が成り立たない事を述べている。地域における小浜の重要性を示している。

日本海域との繋がり

 小浜は京都と日本海を結ぶ外港でもあった。そのため日本海沿岸地域との関係も深かった。永享八年(1436)の羽賀寺本堂建立には、奥州十三湊の安部康季が莫大な銭を寄進している。寛正四年(1463)には、この十三湊との関係を考えられる「十三丸」が小浜に入港している。

 さらに戦国期ごろには、蝦夷宇須岸との間に年3回の商船往来があったともいう(『新羅之記録』)。また越後からは青苧などを積んだ「芋船」「越後船」が多く入港していたことが、『実隆公記』等から知ることが出来る。

西日本海域との繋がり

 文明二年(1470)、出雲守護・京極氏が守護代・尼子氏に隠岐の廻船の美保関役を小浜で徴収するよう命じている。当時、小浜に西日本海域の廻船が多く入港していたことをうかがわせる。

 さらに文明八年(1470)、博多商人らが、若狭経由で京都に入ることを李氏朝鮮の使者に勧めている。実際、寛正六年(1465)、対馬守護・宗氏の進物船が小浜に入っている。これらのことから、小浜は朝鮮、九州北部を含む西日本海域全域と繋がっていたことが窺える。

唐人の居住

 元亀二年(1571)十月、小浜の神宮寺は若狭遠敷郡恒枝のうちから、成物として226文を「唐人六官」に納めている(「神宮寺領所成物目録」)。また年未詳の神宮寺月行事御房宛の連署状からも、唐人六官の存在が確認できる。

 彼らは小浜かその周辺に来住した唐人(中国人、あるいは朝鮮人)であるとみられる。小浜に日本海経由で外国船がある程度頻繁に来航し、貿易が行われていたことがうかがえる。

東南アジアとの交流

  応永十五年(1408)六月には、小浜に「南蕃船」が着岸した(「税所次第」)。派遣者は「亜烈進卿」*1とされ、彼は東南アジアの港市国家・パレンバン(旧港)の華僑の頭目であった。

 はるか遠く、パレンバンから来航した南蛮船は、日本国王へ「生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二対、鸚鵡二対」などを贈った。同船は一度は大風で船が大破しながらも、翌年十月、船を新造して小浜を出航した。

 南蛮船は応永十九年(1412)六月にも2艘で小浜に着岸しており、問丸本阿弥を宿としている。

 16世紀末になると、小浜の豪商・組屋がフィリピン・ルソン島の「るすん壷*2を扱っている。室町期の小浜と東南アジアとの交流が、形を変えて継続していたことがうかがえる。

関連人物

参考文献

  • 小葉田淳 「第五章第二節 日本海海運と湊町」( 『福井県史 通史編2』 1995)

*1:明朝から旧港宣慰使に補任された施進卿とみられている。

*2:呂宋壷。16世紀末から17世紀初期にかけて主に茶道具として日本で珍重された陶器。中国南部や中部ベトナムで作られた雑器であるが、ルソン島を経由して輸入されたため、このように呼ばれる。