戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

倉吉 くらよし

 伯耆国東部、天神川と小鴨川の合流点付近の打吹山北麓に位置する市場町。陸上・河川交通の要衝として、また伯耆守護・山名氏の本拠としても栄えた。

「倉吉」の初見年代

 打吹山城は山名氏により、14世紀ごろに築城されたといわれる。城下の倉吉の町もその頃から形成されたとみられる。しかし「倉吉」の名称自体は、天正十一年(1583)七月二日の吉川元春・元長連署状にみえる「伯耆国久米郡之内西倉吉」が一次史料では初見とされる。

大永四年以前の繁栄

  近世編纂の『伯耆民談記』の倉吉の項によれば、大永四年(1524)に出雲の尼子経久の攻撃で打吹山城が破壊され、以後は「市町社宮佛閣に至る迄荒廃し、古の繁華の跡方もなく」という有様となった。16世紀中頃の弘治永禄の頃には、人家が300余りの邑里となっていたという。

 倉吉が大永四年以前は市町が栄え、神社仏閣が多く存在する城下町であったことがうかがえる。

天正年間の復興

  その後、毛利氏支配下天正十年(1582)の頃から再び栄えはじめる。近郷の諸城が滅亡した影響で、各地の職人や商人が自然と倉吉に集まり、家屋を造り市町を形成した。「岩倉町」も開けたのはこの頃だという。

 天正十二年に作られた刀に「伯耆倉吉住道祖尾七郎左衛門尉広賀」の銘があり、倉吉に刀鍛冶が住んでいたことが分かる。天正十三年(1585)からの南条氏の時代には、さらに新町も形成され、市街が拡大されていったとみられる。

参考文献

  • 『新編 倉吉市史 第二巻 中・近世編』 1995