正面に中国地方最大の伯耆大山を臨む島根半島東端に位置する港町。中海と日本海、隠岐海域など複数の海域を結節する要衝を占めた。中世、小浜に次ぐ西日本海航路の重要中継港であり、重要な海関でもあった。
鎌倉期の美保関
その史料上の初見は 宝治二年(1248)の「蔵人所牒写」にみえる「三尾」であるとされる。同史料は左方灯炉御作手の供御人の通行に際する関での狼藉を禁じたものであり、この頃には美保関に「関」が設置されていたことがうかがえる。
「蔵人所牒写」には、他に島戸・赤間・門司・竈戸が挙げられており、これらの港との間に航路が確立されていたことが推定される。
山陰の要港
大永三年(1523)、李庵寿橘は美保関から「便商船」を得て、使者を周防に遣わしている。美保関から山陽沿岸に至る航路を、日常的に廻船が運航していた。
隠岐との関係では文明二年(1470)、京極持清が尼子清貞に「隠岐所々廻舟」の「美保関役」を小浜で徴収するよう命じている。隠岐‐美保関‐小浜が、一つのルートとして確立されていたことがうかがえる。
美保関役
日本海航路の要港としての美保関は、戦略的な重要性に加え、通行船舶からの「美保関役」による経済性が権力者を惹きつけた。鎌倉期以降、出雲守護領の一角を占め、室町期には松田氏、後に尼子氏が代官職を手に入れて繁栄の資金源としている。
日本海水運の転換
一方で16世紀中頃、石見銀の爆発的増産により日本海水運の転換が起こる。後背地を持たない美保関は他の港の台頭を許し、尼子氏の海域支配の中心も宇竜 や杵築に移っていく。