戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

糸賀 宣棟 いとが のりむね

 厳島神主家の被官。糸賀惟秀の父。糸賀藤棟の弟。平左衛門尉。商人的な性格をもって廿日市の流通課税徴収などにあたった。

大内氏との戦い

 大永四年(1524)、厳島神主・友田興藤に従って大内氏と戦った。六月十八日、敵陣を切り崩したとして友田興藤から感状を得ている(「芸備郡中筋者書出」)。その後、興藤の居城・桜尾城が大内方に包囲されると、宣棟も城方として活躍。『棚守房顕覚書』に、高名をあげた者として野坂藤三、福田治部丞、三井右衛門尉とともに「絲賀中務丞、舎弟平左衛門尉」がみえる。

 七月二十四日、城の二重まで大内方の陶勢が切り行って合戦があり、寄手の勝屋甚兵衛、渡邊掃部助、青目喜三らが討死した(『棚守房顕覚書』)。この時「勝屋」を討ち取ったのが宣棟であった(「芸備郡中筋者書出」)。

廿日市での「浮口」徴収

  大永五年(1525)四月、宣棟は友田興藤から「廿日市浮口改之事」の収納について、以前のように「馳走」することを命じられている。「浮口」とは廿日市の港に出入りする商品に対する課税とみられている。後年、桂広繁が毛利輝元から安堵された廿日市の「河口」と同様とみられる。

 宣棟は、安芸西部経済の中心である廿日市において流通課税を徴収していた。神主家の財政を支える重要な立場にあったことがうかがえる。

商人的な性格

 天文二十三年(1554)に毛利氏が大内氏(陶氏)に叛いた際には、早い段階で毛利方についたらしい。同年六月、毛利氏から20貫文の給地と13間口廿日市居屋敷、4間口の厳島有浦屋形仮屋を給与されている。

 有浦は厳島の商業区にあたる。先述の廿日市での「浮口」徴収も考えると、宣棟は廿日市厳島に拠点を持つ商人的な性格も備えていたと推定される。

石見国との関係

 また宣棟は、年未詳で毛利隆元から石見の国人・吉見広頼への見舞いを命じられている。これは広頼との個人的な関係*1を前提にしているとみられる。宣棟が石見方面でも何らかの経済活動を行っていた可能性を示している。

参考文献

  • 廿日市町史 資料編Ⅰ』 1979
  • 秋山伸隆 「室町・戦国期における安芸・石見交通」 (『史学研究』218 1997)
  • 秋山伸隆 「戦国大名毛利氏の流通支配の性格」 (岸田裕之・編 『戦国大名論集6 中国大名の研究』 吉川弘文館 1984)

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極楽寺山から見た廿日市の町。

*1:大永四年(1524)七月頃、桜尾城の和談は、石見国津和野の吉見頼興がまとめている。石見吉見氏と厳島神領衆の関係が近いことが背景にあったと考えられる。