戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

兵庫 ひょうご

 中世、瀬戸内海屈指の重要港として栄えた港町。中世、瀬戸内海各地から多くの物資が兵庫に陸揚げされ、京都などの消費地に運ばれていった。

平安期の港湾整備

 平安期において、兵庫は大輪田泊と呼ばれ、朝廷による港湾整備が行われた。12世紀後半には、平清盛のもとで経ヶ島が築かれるなど日宋貿易、瀬戸内海航路の基点として大規模な整備事業が展開された。

国際港

 この兵庫(大輪田泊)の国際港としての性格は、15世紀も変わることはなかった。遣明船派遣の基地港として大型船が発着し、幕府による港湾整備事業が行われた。兵庫は応仁・文明の乱で衰退し、堺にその地位を譲るが、それまで畿内最大の国際港として重要な機能を果たし続けた。

畿内への物資陸揚港

 また、兵庫は瀬戸内海流通において、一大消費地・京都への物資陸揚港として機能していた。兵庫には東大寺管轄の北関と、興福寺管轄の南関という二つの海関が置かれていた。

 この内、北関については文安二年(1445)の関税台帳「兵庫北関入舩納帳」が残されている。瀬戸内海全域、四国各地から計2000余艘にものぼる船が、兵庫に多くの物資を運び込んでいることがわかる。

兵庫の水運

 その中でも、兵庫船籍の「地下」船は、最も多い入港回数が記録されている。積荷として米や塩といった兵庫周辺や淡路、阿波などの産品を積載していた。

 船の積載量の多くは50石以下だが、中には1500石超という遣明船級の大型船舶もあった。兵庫の国際港としての性格が、大きな水運力に裏づけされたものであったことがうかがえる。

参考文献

  • 神木哲男 「中世の瀬戸内海と兵庫津」(神木哲男・崎山昌廣・編著 『歴史海道のターミナル 兵庫の津の物語』) 1996