中世、独立した島嶼であった児島(現・児島半島)の南西端に位置した港町。瀬戸内海の喉首を占める地勢上、瀬戸内海航路の重要な寄港地として、また水運の拠点としても栄えた。
平氏の拠点
平安末期の源平合戦において、西国で勢力挽回を図る平氏の拠点の一つが下津井だった。『吾妻鑑』によれば、寿永二年(1183)七月、西海に逃れた平氏一門・安徳天皇は下津井から出帆し鎮西(九州)に至っている(『吾妻鑑』寿永三年二月二十日条)。
寿永三年(1184)には、平教盛・通盛・教経父子がいる下津井に向けて、源氏への寝返りを決意した讃岐・阿波の在庁官人らが兵船10余艘で襲撃。小舟に乗って迎撃に出た平教経が、これを撃退した上で敵方を淡路国福良の泊まで追撃した。さらに同地の源氏方の城郭も攻撃して城将を討死や自害に追い込んでいる(『平家物語』巻9六箇度軍)。
中世児島の要港
鎌倉末期から南北朝期以降、児島と本州の海峡部が河川の堆積土砂によって船舶の航行が困難になっていく。このため室町・戦国期には児島南岸を廻る航路が主流となっており、船舶の下津井寄港の事例が多くみられるようになる。
文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、33隻の下津井船が兵庫に入港しており、下津井が水運の拠点であったことを示している。下津井船の主な積荷は小嶋(児島)塩で、4,820石が運ばれており、下津井が児島産の塩の運送の大部分を担っていたことが分かる。下津井船は他には米、豆、大麦、小麦などの米穀類や、河豚干物や小鰯などの海産物を運んでいる。
下津井城の築城と大改修
時期は定かではないが文禄年間(1592~96)ごろ、宇喜多秀家によって下津井城が築かれたと伝わる。慶長五年(1600)の関ケ原合戦後、備前国に小早川秀秋が入部するが、慶長七年(1602)に秀秋が病死。代わって池田忠雄が備前国領主となると、池田一族の池田長政が下津井城主となった。
池田長政のもとで慶長八年(1603)から同十一年(1606)にかけて下津井城は大改修が施され、近世城郭として生まれ変わった。背景には、下津井城を西国大名に対する瀬戸内海沿岸の戦略拠点にすべきとの徳川家康からの内命があったともされる。いずれにせよ、下津井が瀬戸内海航路の要港と認識されていたことがうかがえる。
その後、下津井城は寛永十六年(1639)まで維持されるが、同年に幕府の命令で廃城となった。