戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

安宅 あたぎ

 紀伊国南部・日置川河口部から約2.5kmほど遡った 地点、安宅川が日置川に合流する場所に位置する港町。熊野水軍の一角である安宅氏がこの地に居館(安宅本城)を構えており、同氏が展開する水上交通の拠点を担ったとみられる。

日置川下流域の港町

 安宅氏の居館・安宅本城跡は、自然堤防上にある小字「城の内」にある。「城の内」全域には、他にも14・15世紀を中心とする遺物や、柱穴・土杭などの遺構が確認されており、複数の屋敷があったことが推定されている。また日置川と安宅川の合流点には、近世初頭まで湊があったと伝わっている。

 外洋の激しい波を避けることができるため、川の河口部からやや遡上した地点に湊が営まれる例が中世には多く見られる。安宅の湊も、紀伊半島沖を航行する際の寄港地として、あるいは日置川上流の山林資源などの積出港として機能したものと思われる。

畿内と東海の境界

 安宅荘からは多くの出土遺物が発見されているが、その構成をみると、中世前期(11世紀中頃~14世紀前半頃)は、紀伊や大和、和泉などで生産された瓦器(土器の一種)と、東海地方から運ばれてくる山茶碗がほぼ同じ比率で出土している。このことから安宅は畿内系瓦器と東海系山茶碗のシェアの境界に位置していたものと思われる。

備前焼の出土

  また出土遺物の内、備前焼に注目すると、安宅と瀬戸内海の結びつきをうかがうことができる。

 長寿寺境内から出土した備前焼大甕には「暦応五年(1342)」の年号が刻まれており、年号が刻まれた備前焼の中で最も古い例として知られている。この大甕には他にも「備前国住人香登御庄」や「あつ(誂)らふ也」などの文字が刻まれ、「僧」や「魚」の絵も彫りこまれている。特注品であったと考えられている。

瀬戸内海地域との海運

 なお、瀬戸内海の小豆島の東海上約6kmに位置する水ノ子岩付近の海底では14世紀中頃の備前焼が大量に見つかっており、沈没船の積載品とみられる。この沈没船については、バラストとして使用されたとみられる河原石の岩石組成から、紀ノ川流域か日置川流域から来た船舶である可能性が指摘されている。

備前焼、さらに東へ

  出土分布から見た備前焼流通の最先端は、南北朝期には安宅荘までであったが、中世後期には串本・潮崎を越えて紀伊半島南東沿岸部にまで広がっている。安宅においては、八幡山城跡や安宅本城跡から壺や甕、擂鉢といった備前焼が大量に出土している。これららは、14~16世紀頃のものと推定されている。

 中世後期の安宅は、備前焼流通における一大消費地であったとともに、さらに東へと向かう海運ルートの重要拠点であったとも考えられる。

参考文献