播磨国揖保郡南部から幹線航路に突出した小さな半島の西側に位置する港町。三方を山が囲む小さな入江を天然の良港とした。古来より瀬戸内海航路屈指の重要停泊地、海運基地として栄えた。
古くからの要港
室は『播磨国風土記』にもその名がみえるなど、平安期以前から知られた港であった。特に平清盛が福原に遷都し、瀬戸内海航路が整備されると大きく繁栄した。江口・神崎の著名な遊女も、室に移ってきたといわれる。
室町、戦国期においても、足利義満や朝鮮使節、島津家久、西園寺宣久、毛利輝元など旅行記録が残る人物の多くが室に寄港している。なお戦国末期に室を訪れた宣教師たちは、「大きな町」と記している。中世を通じて、瀬戸内海航路の重要な中継港であったことが分かる。
海運の港
同時に室は、多くの船頭が拠点とする水運の港でもあった。南北朝期成立の『庭訓往来』には「大津坂本馬借」や「鳥羽白河車借」とともに「室兵庫船頭」が挙げられている。当時、室は兵庫に並ぶ船頭の所在地であると認識されていた。
実際、室町中期の『兵庫北関入舩納帳』によれば、周辺地域の物資を積載した室の船が80回(船籍地別で5位の回数)も兵庫北関に入港している。
海外に開かれた港
応永十一年(1404)四月、室には中国・明朝の国使を乗せた明船が寄港している。さらに同年八月、「おきなう船」(沖縄船)が入港したことが確認できる。
また戦国期には、京・堺商人と提携し、塩飽船とともに薩摩・日向から唐荷(輸入品)の輸送を行っていた(「大願寺文書」「厳島野坂文書」)。室の船は、瀬戸内海を超える広域の物資流通に関わっていた。