松山平野・久万川河口付近に位置する港町。戦国期、中部伊予の有力領主・河野氏の本拠・道後の外港の一つであった。河野氏家臣の有力海賊衆・来島村上氏の伊予本土における拠点港でもあり、豊後など北部九州地域と畿内を結ぶ瀬戸内海の新航路の寄港地、水運拠点としても台頭して発展した。
伊予と他国を結ぶ
永禄初年ころ、村上通康は堀江近郊の高音寺にいた高野山上蔵院の僧に宛てた書状で、まもなく堺に「直々罷上」る船があるのでそれに乗船して帰山するように伝えている。来島村上氏が、平時には堺-伊予間で船を運航させていたことが分かる。また、その発着港が堀江であったことがうかがえる。
永禄九年(1566)には、通康が周防大島の三蒲郷の松尾寺住職に対し、「半済米」を堀江に積み渡すよう命じている。このように堀江は来島村上氏のもとで水運基地として発展したとみられた。
伊予中部の要港
永禄十一年(1568)、伊予国に出兵した小早川隆景は家臣・乃美宗勝に三津浜、松前、堀江で船を調達するように命じている。堀江を、伊予中部を代表する港湾と認識していることがわかる。
また 戦国期は伊予河野氏や豊後大友氏の勢力拡大により、伊予、豊後と畿内を結ぶ航路の利用が活発化していた。先の来島村上氏の例のように、堀江は同航路を航行する船の寄港地、あるいは発着地であった。そのためフロイスらイエズス会宣教師や伊予板島の領主・西園寺宣久、陰陽師・賀茂在昌ら旅人が途上で滞在している。