瀬戸内海中央部を扼す備讃海峡の中心に位置する塩飽本島の港町。瀬戸内海航路の重要な寄港地、海関として、また西日本海域全域にわたる水運基地として栄えた。港湾部は、東北岸の「笠島」や東南岸の「泊」であったとみられる。
塩飽船の活躍
文安二年(1445)における関税台帳『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、塩飽を船籍地とする船が37回にわたって兵庫北関に入港している。塩飽船の積載品は、周辺海域の代表的産物である塩を中心に、大麦や米、豆、山崎胡麻など。
また船の規模も、百石積級以上の船が21回記録されている。大型船を含む多くの船が、塩飽を基地として活動していたことが分かる。
塩飽船による関料不払い
文明五年(1473)十二月、讃岐守護・細川氏から讃岐守護代で塩飽に代官を置く安富元家に対して、兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるよう通達がなされている。しかし、このような塩飽船に対する措置も、文明十年(1478)には「近年関料有名無実」(『多門院日記』)と言われる状況になる。
塩飽船は、山崎胡麻(山城の大山崎離宮八幡宮の胡麻)の輸送に関して関税免除特権を有していた。塩飽船は、本来は輸送積載品である胡麻に与えられたこの特権を盾に、勘過を行うようになっていた。最終的には、細川氏の裁定で塩飽船の特権を認めた過書も停止され、塩飽の代官・安富新兵衛尉を通じて塩飽に通達されている。
堺へ輸入品を運ぶ
戦国期、塩飽船の活動範囲は瀬戸内海に留まらず、唐荷を扱う京・堺商人の輸送船として薩摩-堺間を航行していた。天文二十一年(1552)以降の唐荷駄別役徴収をめぐる陶晴賢と能島村上氏ら海賊衆の対立により、塩飽船が海賊の攻撃にさらされるようになっていたことが史料にみえる(「大願寺文書」)。
能島村上氏の海関
上記の能島村上氏は16世紀初め、村上隆勝が細川高国から「讃岐国料所塩飽嶋代官職」を得たことで塩飽に進出していた。永禄末年頃、大友宗麟は堺への家臣派遣に際し、塩飽での「公事」の免除を能島村上武吉に依頼している。塩飽に、能島村上氏の海関が置かれていたことが分かる。
そのため、瀬戸内海を航行する多くの輸送船、客船が塩飽を寄港地としていた。九州-堺間を往来していたイエズス会宣教師も、しばしば塩飽に滞在している。
織田氏の調略
天正五年(1577)三月、織田信長は堺の代官・松井友閑に対し、堺との間を往来する塩飽船に対し、従来通りの権限を認めるよう指示している。織田氏は瀬戸内海の制海権をめぐって毛利氏と対立しており、その為に塩飽の調略を図っていた。
天正九年(1581)四月、宣教師ルイス・フロイスは、塩飽で積荷を臨検しようとする「能島殿(Noximadono)の代官と毛利の警吏」について報告書に記している。この段階では、塩飽は依然として能島村上氏の支配下にあった。
しかし天正十年(1582)三月には、小早川隆景が能島村上武吉に対して塩飽を味方にするよう指示を出している。この時点で塩飽は織田方に切り崩され、能島村上氏の支配を離れていたとみられる。この間、武吉も一時は織田方に誼を通じており、四月には来島村上氏が織田方に転向している。
羽柴秀吉の支配
毛利氏と羽柴秀吉との講和が成ると、塩飽は秀吉の支配下に置かれ、軍船や水夫の供出、物資輸送などの軍役などを担うことになる。九州遠征の際には50人乗りの船10艘と水夫50人の供出を命じる秀吉からの朱印状が出されている。この朱印状の宛名は「塩飽年寄中」であり、塩飽が何人かの「年寄」によって統治されていたことが分かる。薩摩攻めの際には、「年寄中」が兵糧や軍馬、竹木などを大坂から薩摩の川内に輸送するよう命じられている。
小田原攻めの際にも、兵糧米を大坂から小田原に輸送している。 朝鮮出兵の際には、軍船供出のほかにも塩飽の船大工が徴集され、「大船作事」に動員された。