戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

坂越 さこし

 播磨国西部の坂越湾に面する港町。中世、瀬戸内海の寄港地として栄えた。

平安期の坂越と秦一族

 「坂越」の地名は、延暦十二年(793)の東大寺文書などに初めてあらわれる。当時の坂越郷は目坂、木津、高野、坂越浦以南一帯と那波を合わせた地域であったとみられている。

 室町期に世阿弥が著した『風姿花伝』には、渡来人の秦河勝が、難波の浦から船に乗って坂越浦に漂着したという伝承が記されている。伝承の真偽は不明だが、坂越郷をはじめとする赤穂郡一帯には、秦一族が番居していたことが、東大寺文書や木簡などによって確認できる。

坂越の海運

 室町期、坂越船の活動が史料上にあらわれる。文安二年(1445)における関税台帳『兵庫北関入舩納帳』によれば、坂越船は計4回ほど兵庫北関に入港している。積荷は鰯や海鼠などの海産物だった。坂越では漁業が盛んであり、海産物を輸送する廻船も活動していたことがうかがえる。

瀬戸内海の中継港

 坂越は瀬戸内海航路の中継地であり、旅人の記録にもみえる。永禄七年(1565)十二月、宣教師ルイス・フロイスは堺への便船待ちで坂越にしばらく逗留している。

 天正十五年(1587)、九州遠征中の豊臣秀吉を見舞った細川幽斎も、帰途で坂越に泊り、翌日家島を周遊している。

織田氏と毛利氏の最前線

 戦国期、播磨に進出した織田氏上月城の赤松政範(坂越の旧領主)を滅ぼして備前の宇喜多氏(および同氏を支援する毛利氏)と対峙すると、坂越は両勢力の最前線に位置するようになる。

 天正六年(1578)三月、毛利氏は配下の700艘の兵船を室津~坂越浦に派遣して織田氏を牽制している。同年十一月、小早川隆景は冷泉氏や桑原氏、包久氏、村上武満ら毛利方警固衆の諸将に、坂越、英賀方面での警固活動について指示を与えている。

参考文献

  • 廣山尭道「坂越の歴史-原始・古代・中世-」(『坂越廻船と奥藤家』 赤穂市立歴史博物館 1994)

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大避神社参道沿いの家並み。

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坂越浦に面する家並み。高さ約1mの石垣の上に建てられている。

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坂越浦へとのびる大避神社の参道。

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現在の坂越浦。坂越湾内に浮ぶ生島には秦河勝の墓があるという。

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坂越浦から瀬戸内海を望む。家島がみえる。