戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

村上 隆勝 むらかみ たかかつ

 能島村上氏の当主。細川京兆家被官。官途名は宮内大輔、後に山城守。子に義雅、義忠、隆重。村上武吉の祖父にあたる。

家譜の中の隆勝

 隆勝について「閥閲録(巻22村上図書)」では、大内義隆から一字をもらって隆勝と名乗ったこと、はじめ宮内少輔*1、のちに山城守の官途を有したこと、大永七年(1527)九月に51歳で死去したことが簡潔に記されている。

 ただし死没年については、天文元年(1532)九月とする史料もある。大内義隆家督継承時期*2、および後述の隆勝の事績から死去の年は天文元年とした方がつじつまが合う。

塩飽を得る

 年未詳四月、村上宮内大夫(隆勝)は幕府の有力者・細川高国から「忠節」を賞されて「讃岐国料所塩飽嶋代官職」を与えられた。塩飽は古くから瀬戸内海交通の要地であり、文明五年(1473)時点では細川京兆家重臣・安富元家が代官を置いて支配していた。

 隆勝の代で塩飽を得た能島村上氏は、武吉の時代には塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえた。また塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させている。

細川高国との関係

 年未詳四月十三日付で細川高国が讃岐秋山氏に宛てた軍勢催促状には、「猶委細村上宮内大夫可申候」との文言がある(「秋山家文書」)。讃岐秋山氏の取次を務めていることから、宮内大夫(隆勝)は高国の近臣であったとみられる。また大内義興が、村上宮内大輔(隆勝)の「与州国分山合戦」における戦功を賞した感状も残されている(「古文書纂」)。隆勝が細川高国、および大内義興畿内で高国と連携して将軍足利義稙を支えていた)らの陣営に属していたことがうかがえる。

 享禄四年(1531)五月、隆勝とおぼしき村上山城守父子が伊予守護河野通直の供をして、重見、中河などの他の河野家臣団の面々とともに上京している。これは当時畿内で激化していた細川高国と同晴元の戦いに参戦するためで、河野通直主従は晴元方に味方していた。このことから、隆勝が立場を変えて高国と敵対したと考えることもできる。一方で村上山城守は隆勝とは別人で、能島村上氏でも別系統の人物とする見方もある。

大友義鑑との連携

 天文元年(1532)七月二十日、豊後の戦国大名大友義鑑安芸国の国人熊谷膳直に対し、近々豊前筑前大内氏の分国)を攻めるので、安芸国において武田光和尼子経久と連携するよう要請している(「熊谷家文書」)。さらに「海上之事」は河野通直、宇都宮氏、村上宮内大輔(隆勝)にも連絡済みであると述べている。

 後年、隆勝の孫の武吉は永禄十三年(1570)六月十五日に塩飽において大友家臣本田鎮秀に便宜を図り、さらには大友宗麟に寝返って毛利氏と敵対している。このような豊後大友氏とのつながりもまた、隆勝の時代にまで遡るといえる。

死後

 隆勝は天文元年(1532)頃に死去し、家督は嫡子義雅が継いだ。近世の「譜録(村上図書)」などによれば、この後義雅が早世したことで義雅の嫡子義益と、義雅の弟義忠の子武吉による家督争いが勃発したとされる。

参考文献

  • 山内譲 「水運の島ー塩飽諸島」(山内譲 『海賊と海城-瀬戸内の戦国史-』 平凡社 1997)
  • 山内譲 「海賊衆の成立」 (『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』 平凡社選書 1997)
  • 山内譲 『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』 講談社 2005
  • 橋詰茂 「在地権力の港津支配」(橋詰茂 『瀬戸内海地域社会と織田権力』 思文閣出版 2007
  • 桑名洋一 「二つの能島村上氏−天文期争乱に関する一考察−」(四国中世史研究会 編 『四国中世史研究 第十六号』 2021)

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能島村上氏の本拠地である能島城跡を宮窪港からながめる。

*1:当時の文書には「村上宮内大夫」あるいは「村上宮内大輔」とみえる。伝承の過程で誤ったものと思われる。

*2:義隆は父義興が享禄元年(1528)十二月に死去してから家督を継いでいる。隆勝が大永七年(1527)に死去したのでは、義隆から一字拝領できない。