戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

多度津 たどつ

 讃岐国西部・讃岐平野に位置する港町。室町・戦国期、瀬戸内海の水運基地の一つとして栄えた。西讃を支配した守護代・香川氏の城下町でもあった。

多度津の水運

 文安二年(1445)の兵庫北関の通関状況を記す『兵庫北関入船納帳』によれば、この年「多々津」船籍の船が延べ21艘、兵庫北関を通関している。このうち香川氏国料船が7回通関し、さにに五月には香川氏過書船十艘が1度に通関している。

 兵庫に入関した多度津船の大半は、香川氏の船だった。当時、多度津が香川氏の管理下にあり、多度津を基地とする物資輸送も、ほぼ同氏に独占されていたことがうかがえる。

 香川氏の国料船、過書船の積載品は不明だが、それ以外の4艘は多度津西方で生産される詫間塩を中心に、米、小麦、干鰯などを運んでいる。周辺海域で生産される塩や魚介類、讃岐平野などで生産される農作物が、多度津から積出されたと思われる。

讃岐の主要都市

 戦国期においても、多度津は讃岐の主要都市の一つであったとみられる。戦国期のものとみられる「金蔵寺修造要脚廻文案」によれば、宇多津、多度津、堀江の町場に対して、合わせて18貫文の無心がされている。これ以前にも10貫文の寄進が行われており、多度津などの町人が大きな経済力を持っていたことがうかがえる。

参考文献

  • 小川信 「讃岐の港湾都市と両守護代の海運掌握」 (『中世都市「府中」の展開』 思文閣史学叢書 2001)
  • 香川県史 第2巻 通史編中世』 1989

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かつて多度津城として守護代・香川氏の居館があったと伝えられる県立桃陵公園から眺めた多度津の町。

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近世多度津藩の城下町としての面影が残る多度津の町並み。

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多度津の町並み②

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熊手八幡宮の社殿。

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熊手八幡宮の高麗犬。文明十三年(1481)に社殿の修築が行われた際、随身門に奉納されたという。