能島村上氏の有力者。16世紀中頃、若き当主・村上武吉とともに能島村上氏の代表者的な役割を果たした。
能島村上氏の重臣
天文二十二年(1552)頃、大内氏重臣・陶晴賢が能島村上氏の厳島における駄別料徴収権*1の停止を通告している。その書状の宛名として「村上太郎」(村上武吉)と並んで「今岡伯耆守」の名がみえる。このことから、当時は対外的に能島村上氏の代表者として認識されていた人物であったことが分かる。
甘崎城と今岡氏
伯耆守の本拠は不明だが、近世に成立した「河野分限録」は、甘崎城主として「今岡民部大輔」を伝えている。今岡氏の拠城が、甘崎城であったことをうかがわせる。
天文十年(1541)六月から七月にかけて白井房胤ら大内方警固衆が「三嶋甘崎岡村能嶋印之嶋」などに出動し、六月二十四日には「甘崎要害」で合戦が行われている。当時、能島村上氏は反大内の惣領家・村上義益と、大内方で村上武吉を当主に推す村上隆重ら庶子家が分裂状態にあった。伯耆守は天文十年の時点では、惣領家に属して大内方警固衆と戦っていたのかもしれない。
その後、上述のように天文二十二年頃には当主・武吉と併記される家中の重鎮となったようである。しかし永禄六年(1563)、原兼重が忽那島の神官・溝田氏に「今岡分」三反の田地を与えており、今岡氏の所領が同氏の手を離れて処分されていることが分かる。
理由は不明ながら、今岡氏は没落していたとみられる。甘崎城も、永禄十年(1567)ごろには来島村上系の村上吉継が城主となっている。
参考文献
- 山内譲 「瀬戸内海の海賊衆と海城―伊予国甘崎城の場合―」(『瀬戸内海地域史研究 第5輯』 文献出版 1994)