戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

村上 吉任 むらかみ よしとう

 伊予河野氏被官・村上吉堅の嫡子。仮名は三郎。官途名は左京進。母は細川被官・児玉弥次郎の嫡女。弟に吉智、吉繁、姉妹に来嶋城主・村上五郎四郎(村上通康か)の母、村上大炊助室がいる(「大濱八幡神社文書」)。

三嶋社への寄進

 文明十七年(1485)八月二十三日、村上三郎吉任が「武運長久」「壽域脩延」「家業繁栄」を願い、三嶋社(大山祇神社*1に一坪二段小の土地を寄進している(「大山積神社文書」)。

大濱八幡宮の造営

 大永四年(1524)八月、吉任の弟の吉智が大願主となって伊予国日吉郷大濱八幡宮の造営が行われた(「大濱八幡神社文書」)。この時の棟札には、「嫡子左京進吉任」また「玉殿本願左京進吉任当浦地頭二代目」と記されている。社殿造営においては吉任が玉殿の本願であり、また嫡子として父吉堅から大濱浦の地頭を継いでいたことが分かる*2

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 さらに「子孫繁栄・当城堅固」という記述もあり、吉任らが城を持っていたことがうかがえる。この城は大濱浦の沖の中途城や武志城とみられ、同時に吉任・吉堅らが能島村上氏だった可能性が指摘されている*3

能島と中途島の対立

 その後、吉任の系統とみられる中途島の勢力と、能島の対立が発生したことが知られる。天文年間と推定される年未詳九月、大内被官・冷泉隆豊が村上右衛門大夫(通康か)に送った書状には「仍能島中途間之儀」とある(「村上謙之亟氏所蔵文書」)。

 中途島の勢力は周防大内氏とも敵対しており、冷泉隆豊の書状には「中途衆」が周防国沿岸で賊船行為におよんでいることが言及されている。前後関係は不明ながら天文十六年(1547)五月に白井房胤ら大内方警固衆が中途島を攻撃している(「成簣堂文庫所蔵文書白井文書」)。

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参考文献

  • 山内譲 「海賊衆の成立」 (『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』 平凡社選書 1997)
  • 桑名洋一 「二つの能島村上氏−天文期争乱に関する一考察−」(四国中世史研究会 編 『四国中世史研究 第十六号』 2021)
  • 愛媛県史編さん委員会 編 『愛媛県史 〈資料編 古代・中世〉』 愛媛県 1983

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大濱浦の砂浜から見た中渡島(中途城)や今治大島。

*1:大三島に鎮座する伊予国一宮。戦国後期には能島村上武吉・元吉父子や来島村上通総、来島村上吉継ら多くの村上一族が、奉納のための連歌に参加している。

*2:吉任の父吉堅も、左京進の官途を名乗っていた時期がある(「仙遊寺文書」)。吉堅・吉任の一族の嫡流は、代々「左京進」の官途を使用した可能性があるという。

*3:文化期にまとめられた『伊予二名集』には「能島の城、在今治東大島、村上左京進、武志城村上修理亮祖、八幡郷うづ巻、左右になかとの島、むしの城あり」との記述がみられる。