伊予河野氏被官・村上吉堅の次男。官途名は修理亮。妻は難波越後守三番目女子。兄弟に吉任、吉繁、姉妹に来嶋城主・村上五郎四郎(村上通康か)の母、村上大炊助室がいる。大永四年(1524)八月、大濱八幡宮造営の大願主となった(「大濱八幡神社文書」)。
大濱八幡宮の造営
大永四年(1524)、伊予国日吉郷大濱八幡宮の造営が行われた。同宮は永正元年(1504)に火災に遭っており、再興の為の事業だった。造営は五月晦日より始まり、七月八日に立柱、八月朔日に上棟、同月十四日に神体が遷された。導師は遍照院佑珍がつとめた(「大濱八幡神社文書」)。
大願主は村上吉智。玉殿本願を大濱浦の二代目地頭でもある兄の吉任が、願主を吉智の妻の難波越後守三番目女子がつとめた。
この造営時の棟札には、村上吉智の一族の系譜関係が詳細に書き留められている。吉智の父は常陸守吉堅、母が摂津州信貴庄住人で細川殿御内・児玉弥次郎嫡女であった。
両親の間には五人の子がおり、男子の嫡子が左京進吉任、次男が修理亮吉智、三男が紀兵衛尉吉繁。女子は嫡女在来嶋城村上五郎母と次女村上大炊助内がいた。またこの時、吉智には実子がおらず、弟の吉繁の嫡子・二郎三郎を養子に迎えていた。
中途城と武志城
文化期にまとめられた『伊予二名集』には、「能島の城、在今治東大島、村上左京進、武志城村上修理亮祖、八幡郷うづ巻、左右になかとの島、むしの城あり」との記述がある。村上左京進と村上修理亮の系統が、「能島」とみられていたことが分かる。