戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

村上 吉堅 むらかみ よしかた

 伊予河野氏被官。官途名は左京進、後に常陸守。吉任吉智吉繁の父。娘が二人おり、長女は来嶋城主・村上五郎四郎(村上通康か)の母で、次女は村上大炊助に嫁いだとされる(「大濱八幡神社文書」)。中途城を拠点とする能島村上氏である可能性が指摘されている。

河野氏被官

 年未詳*1十月十六日、河野通直(教通)は村上左京進(吉堅)および伊崎源右衛門に対し、越智郡日吉郷内の佐礼山仙遊寺今治市)の年貢および寺領について、問い合わせを行っている(「仙遊寺文書」)。

 また十一月十九日付で、吉堅は河野氏奉行人とみられる栗上右京之亮通正に仙遊寺に関する書状を送付(「仙遊寺文書」)。この書状には「仍佐礼寺々領之事承仰候とも可為上意候」という記述があり、吉堅が河野通直配下に属していた可能性があるという。 

大濱八幡宮棟札

 大永四年(1524)八月、村上修理亮吉智を大願主として伊予国日吉郷大濱八幡宮遷宮が成った(「大濱八幡神社文書」)。この時の棟札には、吉智の父が常陸守吉堅、母が摂津州信貴庄住人細川殿御内児玉弥次郎嫡女であったことが記されている。吉堅には吉智を含め子が5名おり、当時孫は10名いたとされる。

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 また吉智の兄・左京進吉任は、「当浦地頭二代目」とされており、吉堅と吉任が二代に渡り大濱浦の地頭を勤めていたことが分かる。さらに「子孫繁栄・当城堅固」という記述もあり、吉堅らが城を持っていたことがうかがえる。

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能島村上氏

 この吉堅らの城についてうかがえる記述が、文化期にまとめられた『伊予二名集』にある。すなわち「能島の城、在今治東大島、村上左京進、武志城村上修理亮祖、八幡郷うづ巻、左右になかとの島、むしの城あり」との記述がみられる。

 村上左京進および修理亮の系統が「能島」と見られていて*2、彼らが中途城(中渡島)と武志城(武志島)*3を持っていたと伝えられていたことが分かる。

 能島村上氏については、康正二年(1456)に伊予国弓削島を支配していた勢力の一つとして「いよの國能嶋両村」が挙げられており(「東寺百号文書」)、当時既に二つの系統があったことが知られる。中途城・武志城(務司城)を拠点とした吉堅らの系統が、その一つだったとする見方もある。

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吉堅の祖先

 備後稲生神社広島県三原市久井町)には天正十三年(1585)に小早川隆景が奉納した大般若経が保管されている。この経典は応永十七年(1410)に大濱八幡宮で書写されたものであり、奥書には、その際の旦那の一人として「村上義興」という名がみえる(「備後稲生神社大般若経典奥書」)。彼が15世紀初め頃の吉堅の祖先にあたる人物と考えられる。

 またこの大般若経は文明三年(1471)に村上吉国によって追記が行われており、彼も吉堅の親族と推定される。

参考文献

  • 桑名洋一 「二つの能島村上氏−天文期争乱に関する一考察−」(四国中世史研究会 編 『四国中世史研究 第十六号』 2021)
  • 山内譲 「海賊衆の成立」(『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998)
  • 愛媛県史編さん委員会 編 『愛媛県史 〈資料編 古代・中世〉』 愛媛県 1983

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大浜の港から見た中途城(中渡島)・今治大島。

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広島県三原市久井町の備後稲生神社

*1:山内譲氏は、河野通直の花押から判断して文明十年(1478)前後と推測されている。

*2:「野島流兵守徴船録口義」(江戸期成立)という水軍兵法書の写本の解説には、「能島城主村上吉堅より授けられた軍法記」との記述があるという。吉堅が能島の者と見られていたことが分かる。

*3:両島とも大濱浦の対岸で今治大島との間にある。