戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

戸崎 吉弘 とざき よしひろ

 能島村上家臣。杢之允。武吉、元吉に仕えた。

連歌を詠む

 大山祇神社に残されている法楽連歌には、戦国期の海賊衆が詠んだ歌も多く収録されている。その中に、天正四年万句の六月十四日「白何連歌」で第三句を詠む吉弘の名を見ることができる。

能島村上氏の奉行人

 戸崎吉弘は能島村上氏の奉行人として、毛利氏からの新給地である秋穂(現在の山口県山口市秋穂)の支配に関わった。天正十二年(1584)から同十五年にかけて東吉種らとともに、盛光院(現偏明院)や新善坊(真照院)といった秋穂の諸寺院に寺領安堵状などを発給している(「防長風土注進案〈小郡宰判〉」)。

関ヶ原合戦

 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、毛利氏の領国は八カ国から防長二カ国に厳封となり、能島村上氏の所領も実質は屋代島(周防大島)の1000石のみとなった。この主家の窮状に一族や家臣たちからは、他家に仕官する者があいついだ。

 吉弘も一族の有力者らしき村上四兵衛に同調して無断で主家を去った(『能島家家頼分限帳』)。四兵衛らは、かつて敵だった伊予松前加藤嘉明に召し抱えられた。

参考文献