周防灘に突き出た秋穂半島南端の入江(秋穂湾)に臨んで形成された港町。黒潟開作など近世の干拓地成立以前の湾奥にあって、南方以外を山や島で囲まれた天然の良港であったとみられる。中世には山口の南の外港となったともいわれ、戦国末期には海賊衆・能島村上氏の拠点ともなった。
荘園の倉敷地
秋穂の港の歴史は、秋穂二島庄の倉敷地から始まったといわれる。秋穂二島庄は15世紀には仁和寺菩提院領となっている。
塩の生産
応永十四年(1407)の文書によると、このころ秋穂二島庄が負担した年貢・公事の額は、米250石、麦50石に対して塩400石だった(「仁和寺文書」)。既に塩の生産が盛んである様子がうかがえる。
時代は下るが、16世紀末の『毛利氏八カ国御分限帖』にも「吉敷郡内四七石余の給分が秋穂塩浜名頭三十四名分」とあって秋穂が塩の特産地であったことが示されている。秋穂は塩の生産拠点、積出港として周辺地域や仁和寺のある京都、畿内方面に塩を供給していたのかもしれない。
秋穂八幡宮造営事業にみる広域交流
応仁元年(1476)、秋穂正八幡宮の修築用材が安芸国吉和山で切り出され、秋穂に廻送された。『周防秋穂八幡宮旧記』によると、材木は安芸国玖波の問丸の中務という者の仲介で吉和山から切り出され、同国地御前で受領。材木の運搬船は所務代温科国親*1によって厳島で「買下」され(調達され)、その水手は秋穂八幡宮領の人間が務めた。秋穂八幡宮のもとで水運に携わる人々が秋穂にいたことが分かるとともに、水運によって瀬戸内海の他の地域とも結びついてたことがうかがえる。
八幡宮には、文安年間(1444~1449)に伊予大三島の人とみられる「与州中人三嶋大夫五郎」が作った能面(天狗面)も残されている。
山口の外港
室町・戦国期には大内氏の勢力が秋穂に延びてきていた。この頃の秋穂は周防の中心都市・山口と街道(お上使道)によって結ばれ、その外港を成したといわれる。大内氏滅亡後は毛利氏の支配が及んだ。
永禄十二年(1569)八月、大友氏の警固衆・若林鎮興が「防州合尾浦」を攻撃(「若林文書」)。同年十月、大友氏の後援を受けた大内輝弘が山口に侵攻するために秋穂に上陸している。秋穂は周防灘から山口に至る際の、上陸地点とみなされていたことがうかがえる。
能島村上氏の進出
天正十年(1582)四月、毛利方だった海賊衆・来島村上氏が織田方に転向した。毛利氏は能島村上氏を自陣に引き止めるため、いくつか所領給付を約束。その一つが秋穂で、同年九月、毛利輝元は村上武吉、元吉父子に対して「防州秋穂庄の内千石の地」を与えることを伝えている(「屋代島村上文書」)。
しかし給付の実施は難航した。翌年の天正十一年二月、毛利家臣・児玉就方が村上元吉に宛てた書状によれば、秋穂には「諸家人」や、殊に「上関」(上関を拠点とする能島村上氏の一族・村上武満)と「鞆方」(鞆を支配する因島村上氏の村上亮康)などの所領が散在。この錯綜する給地状況の調整が課題となっていた。それでも同年十月、能島村上氏の粘り強い交渉もあってか、同氏への打ち渡しが実行された。
能島村上氏の支配
秋穂を得た能島村上氏は同地の諸寺院に対し寺領安堵を行うなど実効支配を展開。東吉種*2ら能島村上氏の家臣がこれに関わっていることが確認できる。
また天正十一年十二月、村上元吉が家臣の俊成氏に与えた充行状の中に秋穂の「浦銭 壱貫弐百文」がみえる。「浦銭」は海賊衆が通行する船に賦課し、港津で徴収した通行料であったとみられる。能島村上氏が秋穂を瀬戸内海西部海域をにらむ拠点と位置付け、この海域を航行する船舶からの浦銭(通行料)徴収を行っていたことがうかがえる。