戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

松前 まさき

 伊予国松山平野の西岸、国近川河口部に位置する港町。室町・戦国期、周辺荘園の倉敷地として物資集散を担って栄えた。明応二年(1493)、道基(河野教通)が松崎性尋寺(現・金蓮寺)に発給した禁制には、「湊」の語がみえている。松前が港湾機能を持っていたことが分かる。

石清水八幡宮領玉生荘の所務職

 永享十二年(1440)、国近川流域にある石清水八幡宮領玉生荘の所務職を「松前」という人物が請け負っている。「松前」は、その名から松前を拠点とする小領主とみられる。国近川河口部の港である松前が、同河川流域の荘園の倉敷地であった可能性を示している。

松崎浦衆中

 また文明十三年(1481)、道後石手寺の本堂と三門が再興されたが、その棟札に「越智山奥之大材木請取引衆」の内として「松崎浦衆中」がみえている。彼らの活動の背景に、松前の経済的繁栄がうかがえる。

 これに関連し、先に挙げた明応二年(1493)の禁制から、松前では古くから堤防を築いての干拓が行われていたことが推定されている。松前には大規模な干拓事業を行い得る財力と技術力を持った個人、もしくは集団の存在が想定されている。

伊予中部の要港

  永禄十一年(1568)、伊予に進攻した小早川隆景は家臣・乃美宗勝に、三津、堀江とともに松前から船を調達するように命じている。当時の松前の港町としての発展がうかがえる。

参考文献