戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

東 吉勝 ひがし よしかつ

 能島村上氏の一族。官途名は豊前守。子に吉重、吉次。能島東丸に住んでいたとされる。

能島村上氏の一族

 能島村上武吉の次男景親の末裔にあたる村上保一郎家に伝世されていた「村上文書」の「村上天皇幷能嶋根元家筋」という村上氏の系図には、「豊前吉勝」なる人物が載せられており、「能嶋東ノ丸住」と記されている。一方で「屋代島村上文書」に伝えられている「北畠正統系図」は、村上吉次(村上采女)なる人物について以下のように記している。

実ハ東豊前守吉勝七男、大嶋義光無男子故、為養子其家系ヲ継

 村上采女吉次の父とされる東豊前守吉勝は、「村上天皇幷能嶋根元家筋」における豊前吉勝と同一人物とみられる。さらに「能嶋家家頼分限帳」という江戸初期の史料には、村上采女について「東吉重末之弟ニ而候」と記されている。

 あわせて考えると、東豊前守吉勝は東吉重や村上采女吉次の父親ということになる。「村上天皇幷能嶋根元家筋」の「豊前吉勝」の記述も含めると、能島村上氏のうち能島東丸に住む一族が、その居所にちなんで東氏を名乗るようになったと考えられる。

 なお東吉勝の子の吉重には、村上隆重村上武吉の叔父)側室となった娘がいた。その間に生まれた隆重長子(隆重の嫡子景広の庶兄にあたる)は吉重の養子となって東吉種と名乗り、能島村上氏の家老となっている。

備前本太城への使者

 永禄十一年(1568)九月、備前国児島における毛利氏の拠点本太城を香西又四郎ら阿波三好氏の軍勢が攻撃。城方は在番していた能島村上家臣・島吉利らの活躍でこれを撃退した(「嶋文書」「屋代島村上文書」「宮窪村村上文書」他)。

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 十一月十七日、当時長門国赤間関にいた村上武吉は、「吉勝」という人物に書状を託して本太城の島吉利のもとに派遣している*1。この「吉勝」が東吉勝と同一人物であるかは不明。

 この時、武吉は吉利の活躍を「無比類事」と賞すとともに、以下のように指示しており、「吉勝」「豊規」は島吉利が相談できる人物であったことがうかがえる。

此之表之儀付候而、吉勝・豊規差上候間、涯分被申談、行等可被仕候

 当時、毛利氏は豊後大友氏の重要拠点である筑前立花山城を包囲していた。村上武吉は別箇所で「立花表」についても言及しているので、赤間関にあって大友氏の背後を海上から脅かしていたとみられる。

 武吉はさらに、吉利に対して知行地を申し付けるのでこちらに来てほしいと要請。また馬を多数所有しているなら、どれでもいいのでニ・三疋所望したい旨も打診している(「島家遺事」)。

参考文献

カレイ山展望台から見た能島城跡

*1:書状の最後に「委細者吉勝可申候。恐々謹言」とある。