能島村上氏家臣。天正十年(1582)の来島村上氏の離反後、能島村上氏の使者として毛利氏・小早川氏との交渉を担当した。関ケ原合戦後は、主家を離れたらしい。
毛利方残留の褒賞
天正十年(1582)四月、来島村上氏が毛利氏から離反し、織田方に走ったことが決定的となる。毛利氏は同族の能島村上氏らに自陣営の引き留め工作を行うとともに、来島村上氏への攻撃を開始した。
来島村上氏離反による騒動に一段落がついた天正十年九月、毛利輝元は能島村上武吉・元吉父子に対し、「来島不慮の逆意」にも関わらず毛利方に残ったことを「大慶」であるとし、「防州秋穂庄の内千石の地」を与えることを約束した(「屋代島村上文書」)。この時、能島村上氏は所領給付とは別に浮米(臨時給付の米か)百石を求めたらしい。
以後、能島村上氏と毛利氏の間では、秋穂千石の地と浮米百石についての交渉が並行して行われることになる。
二つの交渉はなかなか進展しなかったが、翌天正十一年(1583)になって浮米給付が具体化しはじめる。同年閏正月、村上武吉次男の景親が毛利氏奉行人の児玉就方・就英父子のもとへ直接出向いたらしい。
同月二十日、児玉就方は村上与兵衛尉と久枝修理進に対し、景親の来訪と交渉結果を「誠目出存候」と述べ、能島村上氏の拠点である務司(伊予国越智郡武志島)へ使者を派遣する事を連絡*1。また浮米についても、安芸吉田で調達して引き渡すつもりであることを伝えている(「屋代島村上文書」)。
二月に入り、児玉就英は武吉・元吉父子と浮米の受け渡しについての詳細を詰める。すなわち、国司就信・黒河著保と自分の三人が担当になって浮米百石を渡すので*2、周防国小郡(山口市)まで受け取りの船を差し下してほしいと要請。
二月二十七日、児玉元貫・児玉就方・内藤元栄ら毛利家臣三名が連名で、国司・黒河ら五名の実務担当者に対して、能島が受け取り手を差し下したので、小郡で間違いなく浮米百石を渡すように指示している。これにより、毛利氏から能島村上氏への浮米百石給付の件は決着したとみられる。
周防国秋穂千石給付をめぐる交渉
天正十一年(1583)四月七日、毛利輝元は「約諾千貫之地」の給付については、いささかも変わりはない旨を村上武吉・元吉父子に改めて伝えている(「屋代島村上文書」)。
この頃、村上与兵衛尉は能島村上氏の使者として輝元のいる安芸吉田に直接出向いて交渉を行ったらしい。児玉就方は武吉・元吉父子宛ての四月九日付の書状の中で、与兵衛尉が吉田に来たので自分も領地の件を吹挙したこと、七月には引き渡す見通しであると記している(「屋代島村上文書」)*3。また小早川隆景も四月十二日付の武吉・元吉宛て書状の中で、父子が与兵衛尉を派遣して主張した内容について、異議はないとしている(「屋代島村上文書」)。
七月二十四日、児玉就英は村上武吉・元吉父子に対し、来月二日、三日ころに、当時検地奉行であった児玉元貫が検使として現地に下る旨を連絡。七月二十五日、児玉元貫・内藤元栄からも武吉に対し、「秋穂打渡申時分之儀」について、本来は七月中旬が予定されていたが、諸事情の為に下向時期が延引しているとの説明がなされた。
八月十三日、小早川隆景は村上元吉に対し、「防州御約束之地渡手之事」について内藤元栄と児玉元貫が現地に下向したことを伝え、能島村上氏からも誰か派遣して相談することが肝要であるとの意向を示す。八月二十四日、小早川家臣・鵜飼元辰は武吉・元吉父子に対して、村上与兵衛尉が長期間逗留して「秋穂之儀」について詳細を詰めていると述べているので、与兵衛尉が能島村上氏の秋穂受け取りの実務を担当していたとみられる。
九月、秋穂を含む吉敷郡の支配を担当していた柳沢元政が「秋穂内御公領の儀」について進退すべきことを伝え、十月には内藤元栄らが毛利氏重臣・長井元親に対して、能島衆三人が秋穂に渡ることを伝えた。この頃には、能島村上氏への秋穂の打ち渡しが完了したものと考えられている。
天正十年(1582)九月に毛利輝元が「防州秋穂庄の内千石の地」の給付を約束してから、一年余りが経過したことになる。秋穂には元々、周防上関の村上武満や備後鞆の村上亮康、毛利家臣の信常元実、新屋実満らの所領があり、毛利・小早川両氏は、彼らへの立ち退き交渉や替地の用意に手間取っていたことが背景にあるとみられる。
天正十二年の状況
天正十二年(1584)十一月二十一日、小早川家臣・井上春忠は村上元吉に書状を送る。最後に「委細与兵衛尉殿可被仰達候」とあるので、使者として訪れた与兵衛尉に返信を託したとみられる。
書状の内容は来島衆による忽那島周辺での「狼藉」行為についてであった。春忠は、この問題は逐一当主の小早川隆景に報告しているとし、「狼藉仕候衆中」に対しては厳しく対応する旨を表明。一方で、伊予国南部の宇和郡や喜多郡の情勢が悪化していることに能島村上氏の主家筋にあたる河野通直やその生母の「御仕出」も憂慮しているとして、是非ともに「堪忍」するよう求めている。
来島衆すなわち来島村上氏勢力による能島村上氏への狼藉については、天正十二年六月ころから問題化していた。当時、来島村上氏当主の村上通総は毛利氏らによって伊予国から追われていたが、伊予国内にはなお勢力が残っていたらしい。この来島衆が能島村上氏方の船を「切取」などの行為におよんでおり、能島方はこれを「賊船」行為、「狼藉」として非難していた。
小早川氏は毛利方陣営に残った来島村上氏の一族・村上吉継や同吉郷に対して善処を求めることで解決を図ろうとしており、天正十三年三月には一応落着する。同年四月一日、村上吉継は村上元吉に対し「彼の関公事の儀、入組みにおいては御落着の儀に候」と述べている。来島と能島の衝突の背景に「関公事」(関所での通行料)徴収をめぐるトラブルがあったことがうかがえる。
なお井上春忠が村上与兵衛尉に元吉への返報を託した天正十二年十一月、伊予国南部はで土佐の長宗我部氏の勢力との衝突が起こっていた。春忠が元吉に来島衆への報復を「堪忍」するよう求めたのはこの為であった。同月十五日、河野通直やその生母「したし(仕出)」も元吉宛の書状で郡内(伊予国喜多郡)が火急の事態になっていることを伝えるとともに、「御堪忍肝要候」と自重を求めていた。
十二月、能島村上氏は「郡内表警固之儀」を命じられている。河野氏や毛利・小早川氏としては能島が来島との争いに兵を割く事態は何としても避けたかったと考えられる。
能島村上氏の衰退
天正十三年(1585)六月、羽柴秀吉の意向を受けて毛利氏は伊予国東部に侵攻。八月までに同国中部および南部まで制圧。同年十一月、小早川隆景は能島村上氏に対し務司・中途からの下城を命じた。以後、能島村上氏は羽柴秀吉からの圧力もあり、瀬戸内海での勢力を大きく失い、毛利・小早川両氏への従属を強めることとなった。
慶長五年(1600)九月、村上武吉・元吉父子は毛利輝元の命を受けて徳川方の伊予松前城攻略を図るが、同月十六日、三津浜にて敵方を急襲を受けて大敗。村上元吉はここで討死した。
さらに関ケ原合戦で西軍が敗れたことで、毛利氏は大幅に領地を減らし、能島村上氏も屋代島(周防大島)など実質1000石となってしまった。村上武吉は屋代島に移り、元吉の子の道祖次郎(のちの元武)を養育したが、多くの家臣が離れていった。
屋代島(周防大島)に移った後の能島村上家臣団の動向がうかがえる史料に、「能島家家頼分限帳」がある。同史料は本来は関ケ原合戦による毛利氏減封以前の能島村上家臣団の禄高を列記したものであるが、家臣それぞれの関ケ原合戦後の動向が追記の形で記載されている。
これによれば、村上与兵衛は「能筆」であり、元々の「分限帳」は彼が作成したものであったという*4。一方で「走り申候」とも記載されており、彼が減封後に無断で主家を去ったらしいことが分かる。