伊予国の今治平野南端に位置する港町。中世には隣接して広い潟が存在していたと推定されている。時宗開祖の一遍が遊行に出発した地としても知られる。16世紀末には国分山城の城下町としての性格も帯びたとみられる。
一遍が出発した港
鎌倉後期の文永十一年(1274)二月八日、一遍は故郷の伊予を離れての遊行に出発。弟子の聖戒は五、六日ほど見送りの為に同行し、桜井で別れた(『一遍聖絵』)。一遍たちはこの後、摂津国四天王寺に移動しており、桜井から船で向かったといわれる。
桜井は頓田川の分流である大川の河口部付近に位置している。周辺には「新田」「新開」の地名が分布しており、かつては内陸部に大きな潟が広がっていたとみられている。中世の桜井は、この潟を利用した港町だった可能性があるという。
桜井周辺には国分寺や国分尼寺(法華寺)があり、今治平野南部の宗教的中心地でもあった。桜井はその外港としても機能していたとみられる。
国分山城と能島村上氏
桜井の北方には国分山があり、天正十三年(1585)二月、海賊衆・能島村上氏当主の村上元吉がここで城普請を進めていた。
この時期、国分山周辺の桜井や伊予府中地域には来島村上氏*1に代わって能島村上氏が進出していたとみられる。実際、天正十二年(1584)十月に村上武吉(元吉の父)が家臣の俊成左京進に与えた充行状には、「(越智郡)桜井、壱貫三百文」が含まれている(「俊成文書」)。
なお国分山は、かつて元吉の曽祖父にあたる村上宮内大輔隆勝が「与州国分山合戦」で勝利した関わり深い地でもあった(「古文書纂」)*2。
ただ天正十三年(1585)二月の能島村上氏による国分山城普請は、伊予河野氏への事前通知もなく突如始められたものだった。同月九日、河野通直は村上元吉に対し「其山彼取誘之由、兼日不存知候之条」と述べ、郷人らに狼藉を働くことがないよう要請している。実際、通直は二月十七日付の元吉宛書状の中で「符中郷内相騒之由候間」と述べているので(「屋代島村上文書」)、国分山周辺地域の住民が騒然となっていたことがうかがえる。
同じころ、河野通直の母「したし」も村上元吉と連絡を取り合っており、「こくふ山御こしらへ候や」と問いかけ、「まさおかしゆ(正岡衆)」と連携することが肝要であると伝えている(「屋代島村上文書」)。
国分山城の城下町
能島村上氏の後は福島正則が国分山城に入った。今治市発行の小字界図によれば、山の北麓に城主の居館部とみられる字「殿屋敷」がある。その周りを内堀がめぐっていたとみられ、「堀内」「土手ノ内」等の場所には城主直臣の屋敷地があったと推定されている。その周囲は土塁、石垣等の防御施設があったとみられ、さらに外側には重臣たちの屋敷地と思しき方形地割が確認できるという。
これら武家屋敷地エリアの南東部には「町畑」を冠する字名を持つエリアがある。桜井村の飛び地であり、その地権者の多くが桜井村の住人であったとされる。その名から町場と推定され、地籍図によれば短冊状地割の集合体のような形状を示す。
町畑のすぐ外側に古天満宮が存在し、その一帯が「天神原」と呼ばれていた。天神原の外側には「浜久保」の小字名が残り、さらにその外側に現在の桜井地区の中心である浜桜井地区となった字「浜」がある。ここは江戸期に港町として賑わったことが知られる。この「浜」が国分山城の港湾機能を果たしたとみられ、中世以来の港町・桜井であった可能性が指摘されている。
慶長五年(1600)の関ケ原合戦後、当時の国分山城主だった小川祐忠は没落*3。国分山城とその城下町は「二ツ割」にされた(「佐伯文書」)。
すなわち武家屋敷地区であった古国分村は藤堂高虎の領地となり、「浜」と「町畑」は加藤嘉明の領地となったと推定されている。「二ツ割」は、城郭と城下町・港湾を分割してその機能を停止させようとする処分であったとみられる。