戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

蘇 そ

 牛乳を濃縮して作られた乳製品。全粉乳のようなものだったと推定されている。古代から中世前期に生産され、薬、あるいは仏教儀式における施物等として用いられた。

蘇の製法

 蘇の製法について平安期成立の『延喜式』や『政事要略』には、次のように記載されている。

作蘇之法、乳大一斗煎、得蘇大一升

 蘇は牛乳をおよそ1/10に濃縮して製造される乳製品であったことが分かる。そして蘇の原料となる牛乳は、乳牛1頭から1日あたり肥牛で大8合、痩牛で大4合の乳を20日間搾乳したものであった(『延喜式』)。また乳牛には、乾蒭(干した牧草)や稲、豆等が飼料として与えられていた。

 現代における蘇の復元実験によれば、牛乳を14パーセントまで加熱濃縮してみた結果、常温で放置しても1年以上カビが生えないし、成分変化もほとんどないという*1。後述するが、平安期まで、蘇は日本各地から宮中に貢納されていた。運搬の工程日数が1か月くらい必要なところもあるが、上記以下の濃度であれば、カビが生じたり腐敗したりする危険性が少なかったとみられる。

 なお平城宮跡から出土した木簡には「近江国生蘇三合」と記載されたものある。蘇には完全に煮詰めたものと煮詰められていないものという種類が存在したことがうかがえる。

薬としての用途

 平安期の医学書『医心方』によれば、蘇には五臓を補い、大腸に利き、口瘡を治すという効能があるとされた。蘇を薬として用いたものに「蘇蜜煮」という料理があり、藤原実資の日記『小右記』には藤原道長がこれを用いたことがみえる。

 長和五年(1016)、藤原道長は三月頃から粥状の漿水(どろりとした飲み物)を頼りに飲むようになり、五月頃には昼夜区別なく漿水を飲むようになった。この道長の行動を医師は熱気によるものとした。道長は丹薬を服用せず、「豆汁・大豆煎・蘇蜜煎・阿梨勒丸」などを服用していたという(『小右記』長和五年五月十一日条)。

 平城宮跡天平十年(738)前後の遺構からは「蘇□煮」と墨書された土器が見つかっている。「蘇」の下の一字は判読されていないが、墨痕などからみて「蜜」である可能性が高いとされる。仮に「蜜」と墨書されていたとすると、蘇蜜煮は天平十年頃にはすでに利用されていたことになる。

饗宴の肴

 平安期、蘇は正月の二宮大饗大臣大饗などで用いられた。二宮大饗とは、正月二日に諸臣が中宮東宮のそれぞれの本所にて拝謁し、その後に玄暉門の東西廊で開かれる饗宴のことであり、蘇は莖立・苞焼・甘栗とともに出された。

 大臣大饗とは、大臣が親王以下の人々を自邸に招いて開く饗宴であり、とくに朝廷から蘇・甘栗が大臣家に賜与された。蘇・甘栗は勅使によって大臣家に届けられ、この使は蘇甘栗使と呼ばれた。

 『侍中群要』巻8蘇甘栗使事によれば、蘇・甘栗は内蔵寮に保管されており、内蔵寮から蘇4壷、甘栗16籠が出蔵され、折櫃に入れられて大臣家に届けられることになっていた。

 平安後期の有職故実書『江家次第』巻2大臣家大饗には以下のようにある。

其肴物折敷二枚也《人別》一枚《蘇甘栗零餘子燒或加腹赤》一枚《鯉指鹽辛□》

 大饗の際、蘇は甘栗とともに折敷に盛られ、酒の肴あるいは点心として利用されたと考えられている。

仏教儀礼での使用

 蘇は仏教徒の関わりが深かった。天平勝宝四年(752)、中国唐朝から来日した鑑真は貴重な経典とともに「牛蘇一百八十斤」を所持していたことが知られる(『唐人和上東征伝』)。弘仁年間には最澄空海に「清蘇一壷」を贈っている。

 蘇は仏教儀礼の中で施物・供物として用いられた。正月八日から十四日まで行われる御斎会に供奉した購読師・僧綱らに蘇1壷が施物として支給されている(『延喜内蔵寮式』御斎会条)。

 また密教では、太元師法*2真言院御修法*3、御燈(毎年三月三日・九月三日に北辰(妙見菩薩)に灯明を献じるもの。皇后が灯明を献じる際に使用される物品の中に蘇が確認される(『延喜中宮式』)。))などの様々な修法に蘇が用いられていた。

 上記と同様な蘇を用いた儀礼が、地方の寺院においても行われたかどうかは分かっていない。ただ千葉県市原市の荒久遺跡からは「蘇」と書かれた墨書土器が出土している。

 同遺跡は上総国国分僧寺に隣接した遺跡であり、国分僧寺の寺奴や工人などが居住した集落の跡とされている。上総国国分僧寺跡からは「油菜所」と書かれた墨書土器も発見されていることから、上総国国分寺では蘇や油を用いた法会が営まれていたと考えられている。

日本での生産と貢納

 『政事要略』巻28年中行事十二月上・貢蘇事の条には以下のようにある。

右官史記云、文武天皇四年十月、遣使造蘇

 文武天皇四年(700)十月、諸国の命じて蘇を造らせ、貢納させる体制が始まっていたことが分かる。養老六年(722)閏四月には、「七道諸国司」に対して、蘇の貢進の際には櫃ではなく籠を用いることが命じられた。

 諸国において蘇がどこで生産されたかについて、吉田川西遺跡(長野県塩尻市)の9世紀中頃の遺構から出土した「蘇」の墨書土器が注目されている。同遺跡は奈良から平安期まで継続した集落遺跡であるが、埴原牧を管理する集落でもあったと考えられている*4。牧を管理する集落から「蘇」の墨書土器が出土していることから、蘇は牧で造られていたと推定されている。

 蘇を貢進した諸国の一つである但馬国天平九年(737)の正税帳によれば、同国では大壷2、小壺3の計5壷の蘇を貢進している。なお大壷は3升、小壺は1升であり、但馬国の貢進した蘇の総量は小9升であったことになる。

 同国では、この9升の蘇を得るために20日間乳牛13頭に日ごとに4把の秣稲を与え、乳牛から生乳を搾った。生乳を加工して出来上がった蘇は、壷に入れられ、さらに外容器の籠に入れられて、担夫によって都に運ばれた。

 平安期の蘇の貢進体制については『延喜民部式』貢蘇番条に詳しく記されている。本条によれば、当時の蘇の貢進国は57カ国であり、それらの国々が一番から六番に分けられ、6年ごとに蘇を貢進するというものであった。蘇の生産、貢進は諸国の負担が大きく、その軽減が図られた結果とも考えられている*5

貢蘇の終焉

 建武元年(1334)、蔵人所牒として北陸道七カ国(若狭、筑前、加賀、能登越中、越後、佐渡)の在庁官人等に対して、辰戌歳の両年は6カ年に1度正月の八省御斎会、太元真言法米、修法長日延命、如意輪、不動三壇御修法、大臣節会、恒例臨時料に使用するために、貢蘇料を納める要請が出されている。しかし、蘇を現物で貢納するのではなく、金銭納に替わってしまう。

 この通牒を最後に、貢蘇に関する記載はみられなくなるという。

参考文献

  • 斎藤瑠美子・勝田啓子 「日本古代における乳製品「蘇」に関する文献的考察」(『日本家政学会誌』39 1988)
  • 佐藤健太郎 「古代日本の牛乳・乳製品の利用と貢進体制について」(『関西大学東西学術研究所紀要』45 2012)

長和五年五月十一日条(小右記 長和5年春) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

長和五年五月十一日条(小右記 長和5年春) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

*1:16パーセント濃縮では、2週間ほどでカビの発生がみられたという。

*2:太元明王を主尊とする修法。修法の際には大壇以下の壇が設けられ、大壇にはとくに天皇の御衣が安置され、加持が施される。『西宮記』巻1、八日太元所遺御衣事では、修法で用いられた物品の一つとして蘇2壷が挙げられている。

*3:正月八日から七日間、真言院にて東寺長者が国家の安泰・天皇の安穏を祈る修法。蘇2壷が使用されている(『西宮記』)。

*4:吉田川西遺跡の9世紀末期の遺構からは「榛原」の墨書土器が発見されており、この「榛原」は「埴原牧」のこととされている。

*5:延喜式記載の貢進制度成立以前は、貢進は3年に1度であった。しかし粗悪な蘇が貢進されたり、貢進が遅れたりする事案が多発していた。