戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

柿(山科) かき

 山城国宇治郡北部の山科で生産された柿。渋柿であり、防水材や漆器の下地塗料などに使用された。公家・山科家の膝下荘園である山科東荘では、文明十二年(1482)頃から商品作物として栽培が本格化していたとみられる。

山城国山科の特産品

 正保四年(1657)刊行の『毛吹草』には、山城国の特産品として、山科の渋柿が挙げられている。続く貞享三年(1686)刊行の『雍州府志』にも、山科七郷の農民が未熟な青柿を籠に盛り、八月から九月に京の市中で販売する様子が記されている。

 当時の渋柿用途は、防水材、防腐材、糊材、強固材、染料の他に漆器の下地塗料と多岐にわたった。また漆の代用品として、日用雑器にも幅広く塗布されていた。中世においても、自宅の柱や梁に塗り込んだり、文書保管用の皮籠の塗装、保存包装用紙として日常の必需品であった。

柿栽培の始まり

 山科東庄における柿の貢納が恒常的になるのは、史料上では文明十二年(1482)から確認できる。貢納日は全て八月一日であり、八朔祝*1の品目として貢納されていたことがうかがえる。

 康正三年(1457)、すでに山科東庄では本所の山科顕言への八朔進上が行われている。応仁二年(1468)の段階で「政所例年餅出候也」とあるように、八朔貢納は定例化していたが、柿はその品目にはみられない(『山科家礼記』)。

 このことから、応仁二年(1468)から文明十二年(1482)の間に山科東庄の柿栽培が大きく発展した可能性が指摘されている。なお山科七郷の一つ野村郷では、康正三年(1457)に渋用柿を納めており、この段階以前の野村郷には柿栽培が展開していたとみられる。東庄の柿栽培は、野村郷から伝播したものであったのかもしれない。

柿貢納の実態

 文明十二年(1482)八月一日、山科東庄から貢納が行われ、5名が計4籠の柿と餅、樽(酒)を納めている。彼らは村落上層の「おとな」であり*2、八朔に餅とともに柿を貢納することは、柿栽培が村落全体の生産活動であったことを示している。

 山科家では、以前から栗を明確にな収取対象とし、他家への贈答品に用いていた。上記の柿の貢納者は栗の貢納者と重なっており*3、岩梨や楊梅といった他の果樹同様、柿栽培が栗栽培と同地区に設定されていた可能性があるという。

 一方で、文明十二年に八朔貢納された柿は、山科家内で自己消費されたらしい*4。また長享二年(1488)の東庄代官・大沢久守以下、各家僕への配分量から、一籠宛60〜100個の柿であった。

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山科郷民の商業活動

 文明九年(1477)、山科家雑掌・大沢久守が山科郷民に対し商売札539枚を発給*5。この内、東庄の札数は58枚で、同庄の在家数ほぼと一致する。この事は東庄の全住民が、以前より何らかの商業活動に携わっていたことを意味する。

 そして延徳三年(1491)、山科七郷の柿売り10人が、京都下六条の柿売りに、柿10荷を差し押さえられ、販売活動を停止させられるという事件が起こる。この相論は、彼らが山科七郷の柿売りが、九月二十六日に日野、小栗栖で柿を仕入れたことに端を発していた。

 このことから、山科七郷柿売りが集団として存在し、渋谷街道を往還して京の下六条周辺で、販売活動をしていたことが分かる。また七郷柿売りは、周辺の栽培農家の柿も買占めようとしており、日野、小栗栖を仕入先としていた下六条の者との恒常的な対立が生まれていたことがうかがえる。

 この相論は、以後の請売り禁止を条件に、下六条商人より柿10荷が不承不承返却されて落着した。大沢久守は七郷のおとな達に、その旨通達しており、山科の柿が貢納だけでなく販売もおとな層に統括されていたことが分かる。

天文年間の果物相論

 山科七郷柿売りのその後の展開がうかがえる記録が、半世紀後の天文年間にみえる。天文九年(1540)、山科郷民と祇園柑類座中(蜜柑等の果実を売る座))との間で相論が勃発。山科郷民は山科家が認可した「諸役免除」の特権を主張して洛中洛外におけいて菓子(果物)の商売を行い、以前から洛中洛外での販売権を保証されていた祇園柑類座中との間で訴訟へと発展していた(『室町幕府賦引付』)。

 また山科郷民は、醍醐の笠取山地一帯の栽培農家へ集団で押し寄せ、仕入れ蜜柑の買占めを行っていたらしく、「古今無之、前代未聞次第也」と糾弾されている。祇園柑類座中が仕入先の独占も主張していたことがうかがえる。販売と仕入先をめぐる競合という点では、延徳三年(1491)の相論が増幅されたものともいえる。

 なお、同様の訴訟は天文四年(1535)にも発生しており、いずれも柑類座の勝訴となっている。しかし山科郷民の京都での果物販売は継続されており、『言継卿記』天文十一年正月十一日条の紙背文書にも、柑類座中が山科郷民を訴えている記述がある。

参考文献

  • 米澤洋子 「中世後期の柿の流通と生産活動ー山科東庄との関連においてー」(京都橘大学大学院論文『山科家の記録にみる中世後期の贈答に関する研究』 2020)

雍州府志6(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:八朔祝は、陰暦の八月一日に、各階層間で、贈答品を取り交わす習慣。濃厚における予祝、収穫に向かっての農作業の相互扶助が起源ともされる。

*2:5名の内には東庄の政所・二郎右衛門や、筆頭山守とみられる三郎兵衛がいる。

*3:文明十二年、栗の貢納者は11名。

*4:他家への贈答品に供された形跡がない。

*5:大沢久守は、当主の内蔵頭(兼職御厨子別当)を補佐する御厨子目代の地位にあった。洛中洛外辺土の供御人を統制、支配する権限を以って山科郷中の商業従事者にも、公事銭を課し、関税免除と市中販売許可の特権を与えた。地方荘園収入の激減を補完する為に、新規供御人と山科郷民からの営業課税(公事銭)と、内蔵寮率分関の再開と運営による関銭徴収を図ったとみられる。