戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

北川 大炊助 きたかわ おおいのすけ

 能島村上氏家臣。天正十三年(1585)二月、村上元吉から河野通直のもとに使者として派遣され、元吉が進めていた伊予国越智郡国分山での城普請について説明したとみられる。

能島村上氏の焦り

 天正十年(1582)三月、海賊衆・来島村上氏織田氏の味方となり、毛利氏・河野氏陣営からの離反したことが明らかとなった。来島村上氏の主家筋であった河野通直は毛利氏の協力を得て討伐を開始。その尖兵となったのが海賊衆・能島村上氏の武吉・元吉父子であった。

 来島村上氏は来島城や鹿島城を拠点に抵抗したが、天正十一年(1583)七月には和議が結ばれ、鹿島城など来島村上方の城は毛利・河野方に明け渡された*1来島村上氏当主の通総(通昌)は、羽柴秀吉のもとに逃亡した。

 天正十一年(1583)十一月、羽柴秀吉は毛利氏一族の穂井田元清に対して「来島帰国の儀」について「意儀無きよう馳走肝要に候」と村上通総の伊予帰国を働きかけた(「阿波国徴古雑抄」)。しかし毛利氏は帰国を認めない強硬姿勢を維持しており、この時は帰国を認められなかった。

 しかし天正十三年(1585)二月、毛利一族の小早川隆景は、来島帰国容認に転じた。隆景は能島村上武吉・元吉の父子に対して提出した起請文の中で「来嶋通昌(通総)事、従羽筑(羽柴筑前守秀吉)被申下之条、請付申迄候」と述べており、通総の帰国を求める羽柴秀吉の強い圧力に抗しきれない状況がうかがえる。

 あわせて、隆景は「御父子三人(武吉・元吉・景親)捨て申さず引立申すべく候」と誓っている(「屋代島村上文書」)。しかし村上通総の帰国は、能島村上氏が激戦の末に獲得した旧来島村上の領地・権益が失われる可能性がある一大事であり、極めて強い危機感を抱いたことが想定される。

国分山城普請

 上記のような状況の中の天正十三年(1585)二月、村上元吉今治平野南部の国分山で城の普請を開始。普請の目的を主家筋にあたる河野通直に説明するために、元吉は北川大炊助を派遣した。

 ただ通直は二月九日付の返信の中で「其山彼取誘(こしらえ)之由、兼日不存知候之条」としており、能島村上氏の国分山城普請が河野通直に事前に知らされていなかったらしい。あるいは元吉の大炊助派遣は、通直からの説明要求を受けてのものだったのかもしれない。

 二月九日付の返信で通直は「郷人等其外無狼藉之様、穏便之御覚悟専要候」とも要請している。能島村上氏の強引な城普請が、周辺の郷人への狼藉につながることを警戒していたことがうかがえる。

 一方で通直は「其方領分中之儀候間」とも述べている。国分山周辺や伊予府中地域には来島村上氏に代わって能島村上氏が進出していたことが分かる*2

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府中郷内の騒動と伊予国南部の情勢

 その後間もなく大炊助は河野通直のもとに再度派遣された。二月十七日付の村上元吉宛の書状で通直は以下のように述べている。

然者今度国分山被取誘候段、此方へ兼而承無子細を、又於其面依無取沙汰、符中郷内相騒之由候間、先日北川差越候き

 河野通直へ子細を知らせることもなく突如開始された国分山の普請をめぐり、伊予府中郷内が騒然となっていることが北川大炊助から説明されたことが分かる。これは、二月九日付書状で通直が危惧した事態であった。通直はこの件について、村上武吉(元吉の父)とよく相談するようにと意見している*3

 また二月十七日付書状の中では、伊予国南部の郡内表(喜多郡)の「評議」についてもふれられている。当時、この地域では土佐の長宗我部氏との軍事的緊張が高まっていた。通直は郡内表への援軍を、毛利氏に要請しており、その返事を聞くために安芸国に使者を遣わしたことも追伸で記している。

 河野氏としては、能島村上氏には来島村上氏への対抗を抑え、伊予南部への加勢に注力してほしいとの思いがあったと考えられる。

参考文献

近見山展望台から見た今治平野。国分山城跡がみえる。

*1:ただし来島村上氏当主・通総の弟義清が籠る日高城(松山市立岩)は天正十二年に入っても抵抗を続けていたらしい。

*2:天正十二年(1584)十月、村上武吉が家臣の俊成左京進に与えた充行状には国分山南麓に隣接する「(越智郡桜井、壱貫三百文」が含まれている(「俊成文書」)。

*3:二月十七日付書状では、最後に「猶事々従武吉可被申上候条、閣筆候、恐々謹言」とあり、村上武吉が元吉への使者となっていたことが分かる。