戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

俊成 左京進 としなり さきょうのじょう

 能島村上家臣。忽那島俊成名を本領とする俊成氏出身か。天正年間、忽那島や岩城島越智郡桜井などに所領を得た。周防国秋穂の浦銭も知行していた可能性がある。

忽那島の俊成氏と能島村上氏

 天正十年(1582)十月、俊成左京進村上元吉から忽那島(愛媛県松山市中島)の俊成分片口を充行されている(「俊成文書」)。

 俊成氏は、忽那島俊成名を本領とする勢力であったと推定される。暦応三年(1340)十月、安芸武田氏が忽那島に来襲した際、これと戦った忽那義範の被官の一人に俊成九郎治がみえる(「忽那家文書」)。

 なお応永十二年(1405)九月に河野通之が忽那通紀に与えた「久津那嶋西浦上分地頭職」には「能島衆先知行分」という注記が付されている(「忽那家文書」)。このことから、能島村上氏も15世紀までに忽那島に進出していたことがうかがえる。

児玉就方への使者

 天正十年(1582)十二月、俊成左京進村上元吉の使者として毛利家臣・児玉就方のところに赴いている。

 十二月二十七日付、村上元吉あてに児玉就方は返信を出す。内容は、能島村上氏に約束していた浮米百石の給付が年内には難しいこと、一方で同じく約束していた500石の知行地については給付が完了し、村上甲斐守(能島村上氏の一族)が請け取りを済ませていることなどであった。最後に「委細之趣者、俊成左京進殿へ申候之条、可有御披露候」とあり、詳細については俊成左京進が説明する旨を記している(「屋代島村上文書」)。

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秋穂浦銭

 天正十一年(1583)十二月、村上元吉は俊成氏*1に下記の充行状を与えている(「俊成文書」)。

一所 俊成一分、十六貫百三十七文
一々 九日分之事、付よしき之浦四分一之事、
一々 秋穂札米 六石之事、同所浦銭 壱貫弐百文
一々 生那嶋 五百文事、
一々 桜井惣領分之内五百文事、
以上、
右、任先例、知行不可有相違之状如件

 このうち、「よしき之浦」は忽那島(中島)西方の吉木に、「生那嶋」は愛媛県上島町の生名島、「桜井」は愛媛県今治市桜井にそれぞれ比定される。

 また「秋穂」は周防国吉敷郡秋穂であり、毛利氏から「防州秋穂庄の内千石の地」の約束を得た能島村上氏が一年余りの交渉の末に、天正十一年十月になってようやく給付を受けた所領であった。

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 「同所(秋穂)浦銭」とは、秋穂沖を航行する船舶から徴収する通行料と推定されている。能島村上氏ら海賊衆は、その勢力圏に通行する船舶に対し、通行証を発行していた。その対価が「浦銭」であったとみられる。

 さらに天正十二年(1584)十月、俊成左京進村上武吉(元吉の父)から以下の内容の充行状を与えられている(「俊成文書」)。

一所 忽那嶋俊成名、壱貫二百五十文
一々 同嶋重安、弐貫五百之内四分一
一々 同嶋為藤、二貫五百之内四分一
一々 同嶋石丸、壱貫弐百五十之内四分一
一々 怒和嶋、壱貫六百六十之内四分一
一々 岩城嶋、壱貫弐百文
一々 本庄、五百分
一々 桜井、壱貫三百分
一々 吉田、三貫百七十五文
右、父日向守進退江半分、無相違可有知行者也、仍如件

 俊成氏の本領と思しき忽那島俊成名を含む忽那島各所や忽那島西方の怒和島来島村上氏の旧領であった岩城島愛媛県越智郡上島町岩城島)、今治平野南方の要港桜井などに知行地を与えられていたことが分かる。

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能嶋家頼分限帳

 慶長五年(1600)九月、村上武吉・元吉父子は毛利輝元の命を受けて徳川方の伊予松前城攻略を図るが、同月十六日、三津浜にて敵方を急襲を受けて大敗。村上元吉はここで討死した。さらに関ケ原合戦で西軍が敗れたことで、毛利氏は大幅に領地を減らし、能島村上氏も屋代島(周防大島)など実質1000石となってしまった。

 江戸初期に編纂されたらしき『能嶋家頼分限帳』には、「俊成左京」の石高は25石と記載される。この石高自体は関ケ原合戦以前のものともいわれる。続けて「右嫡子太左衛門、其嫡今之作兵衛也」とある。

 屋代島に移ってから多くの家臣が村上武吉や嫡孫道祖次郎(のちの元武)のもとを離れていったが、俊成左京進やその子孫たちは主家のもとに留まったことがうかがえる。

参考文献

忽那諸島を含む瀬戸内海(平成30年度撮影)
松山市オープンデータより

*1:充行状に宛先が無いため、俊成左京進に与えられたかどうかは不明。