戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

忽那 通紀 くつな みちのり

 伊予河野氏被官。忽那島を本拠とする忽那氏惣領。次郎左衛門尉。鎌倉末期に活動した忽那重清の曾孫にあたる。

氏寺への寄進

 応永七年(1400)四月、通紀は忽那氏の氏寺であ長隆寺(松山市中島大浦)に寄進を行っている(「長隆寺文書」)。その寄進状には「任贈祖父道一之例」とあり、通紀が道一を法名とした忽那重清*1の曾孫であったことが分かる。

河野氏からの所領宛行

 応永十二年(1405)九月、河野通之から忽那次郎左衛門入道道紀に対し、能島衆が以前に知行していた「久津那嶋西浦上分地頭職」の所領宛行状が出された(「忽那家文書」)。この時の通紀は出家し、入道道紀を号すようになっていたとみられる。

 通紀の曽祖父・重清の時期、忽那氏は足利氏の将である吉見氏や岩松氏の軍事指揮下で活動しており、河野氏に対しては独自に行動する立場であった。しかし河野氏伊予国守護に補任されるようになると、その軍事統率を受けるようになっていく。

 通紀(道紀)の時期には、河野氏が忽那氏に対して、直接所領を宛行うようになっていることが、この事例からうかがえる。後述するが、通紀は忽那氏の惣領であり、その主従関係はより明確になっているといえる。

惣領次郎左衛門尉

 応永十五年(1408)十一月、道紀は長隆寺末寺の実際寺に対し、道紀重代の所領を寄進している。この寄進状の端裏書には「寄進状実際寺 惣領次郎左衛門尉殿」と見える(「長隆寺文書」)。この文書は、本寺である長隆寺に保管されていたものであり、同寺において備忘的に記述されたとのだろう。忽那氏の氏寺・長隆寺の認識として、忽那通紀(道紀)は忽那氏の惣領とみなされていたことが分かる。

参考文献

  • 山内治朋 「南北朝・室町期忽那氏の守護河野氏従属について」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要 第8号』 2003)
  • 愛媛県史編さん委員会 編 『愛媛県史 〈資料編 古代・中世〉』 愛媛県 1983

*1:南北朝初期、北朝方として活動。建武三年(1336)五月から六月にかけて京都において足利氏に従って朝廷方と合戦している(「忽那家文書」)。