戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

岩城 いわぎ

 瀬戸内海、芸予諸島のほぼ中心に位置する岩城島の港町。中世、塩の産地であるとともに海上勢力が拠点を置く水運の基地でもあった。

岩城の海上勢力

 後世の編纂物であるが『予陽河野家譜』によれば、天文十三年(1544)四月、大内氏の警固衆・白井房胤が伊予中島を攻めた際、「今岡・村上・東・岩城・東条以下」が防戦したとしている。岩城島には、同島を拠点とする海上勢力が存在していた。

 また天正十一年(1583)九月、小早川隆景乃美宗勝に宛てた書状に「来島本地は、先知行弓削、岩城の内四十貫」とある。かつて岩城島に、来島村上氏の拠点があったことが分かる。

岩城の水運

 岩城島における海上勢力展開の背景には、同島を基地とする水運力があると考えられる。文安二年(1445)の関税台帳『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年の「岩木」(岩城)船籍の船が兵庫北関に計6回、入港している。船の積載量は百六十石ないし百七十石で、その積荷の殆どが備後塩で占められていた。

 岩城の水運は、島内や周辺島嶼で生産された塩の輸送に特化したものであったことがうかがえる。

岩城屋

 戦国期では、天文二十三年(1554)正月の小早川隆景の書状から、小早川氏の生口島調略に尽力した「岩城屋」という人物がいたことが分かる。「岩城屋」はその名から岩城出身の商人と考えられる。

 小早川氏に協力して隣島である生口島の調略を担っていることから、水運を通して周辺地域と深い結びつきを持つ有力な商人であったことが推測できる。

関連人物

参考文献

  • 宇田川武久 『戦国水軍の興亡』 平凡社 2002
  • 林屋辰三郎・編 『兵庫北関入舩納帳』 中央公論美術出版 1981
  • 「第三章第六節 戦国の動乱と生口島」(『瀬戸田町史 通史編』 )2004

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堤防から眺めた岩城の港と町並み。背後には岩城八幡宮が鎮座する城ノ鼻がみえる。

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岩城の町並み。

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旧島本陣三浦邸(岩城郷土館)。江戸期に伊予松山藩の島本陣として使われたという。

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家の裏門が海に面している。直接物資の搬出入ができる河岸場であったのかもしれない。

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岩城の町並み。

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宝蔵寺。中世、宝蔵寺山城が築かれていたという。

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宝蔵寺から眺めた岩城の町並み。

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宝蔵寺板碑。板碑はほぼ中世に限って造立された石塔。供養祈願のために造られたといわれる。この板碑は構造形式から九州型板碑と呼ばれる。

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浄光寺宝篋印塔。造立年代は室町初期から近世初頭と推定されている。

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浄光寺板碑。この板碑も構造形式から九州型板碑に分類されている。

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城ノ鼻に鎮座する岩城八幡神社

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岩城八幡神社境内に残る城郭の土塁跡。

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円満寺から眺めた岩城古城跡。

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祥雲寺観音堂。飛騨内匠・藤原重安作の一重唐様仏殿。永享三年(1431)に海上安全と万民富業を祈念して建立されたもの。

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祥祥雲寺の五輪塔

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祥雲寺の宝篋印塔。基礎の上に笠部が三つ重なっている。

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岩城新城跡。岩城島西部に位置する。