能島村上氏の当主。 宮内少輔。村上義雅の嫡子。父の早世後、家督を従兄弟の村上武吉と争った。
近世編纂史料にみる家督争い
義益について「閥閲録(巻22村上図書)」では、村上武吉と家督を争い、敗れたことが、簡潔に記されている。
「閥閲録」より後に編纂された「譜録(村上図書)」では、もう少し詳しく記してある。これによれば、義益は病身で「主将之器」では無く、義雅死後に一族は武吉を後継者にしようとしたが、家臣の村上義季らは納得せず、戦争となった。
武吉は当時「幼稚」だったので、武吉の叔父の村上隆重(義益の叔父でもある)が代わって軍を率いて戦い、「凶徒」を退治した後、肥後国で肥後菊池氏に匿われていた武吉を迎えて家督を継がせた、とされる。
能島村上氏内部の対立
義益と家督を争った武吉は天文二年(1533)に生まれているので*1、両者の争いは武吉が「幼稚」ながらも旗頭となれる頃の年代、天文十年(1541)前後と推定されている。
この頃、能島村上氏は大内氏と敵対関係にあった。天文十年(1541)正月、能島および因島・来島の村上三氏は、友田興藤の支援に駆けつけて厳島沖で大内氏と交戦している(「房顕覚書」)。これに対し、同年六月から七月にかけて、大内氏家臣・小原隆名や白井房胤らが三嶋(大三島か)、甘崎、岡村、能島、印之島(因島)など芸予諸島の島々における村上諸氏の拠点を攻撃した(「白井文書」)。
またこの前年の天文九年(1540)にも、小原隆名が長崎元康や白井房胤らとともに忽那島周辺*2を攻撃している(「萩藩譜録 長崎首令高亮」「白井文書」)。能島村上氏の反大内行動は、既にこの頃には始まっていたのかもしれない。
一方で能島村上氏とみられる村上掃部助という人物(村上武吉の父義忠か)が、天文十一年(1542)時点で大内氏に属して活動している。能島村上氏はこの時期、大内氏に敵対する勢力と味方する勢力の二派が存在していた。義益らは反大内方の立場をとり、村上掃部助ら親大内方の武吉擁立派と対立していたとみられる*3。
「中途衆」の抵抗
能島村上氏の本拠地である能島は、天文十六年(1547)四月時点では大内方に属するようになっていた*4。
反大内方は中途島(現・愛媛県今治市中渡島)等に拠っており、天文十五年から翌十六年にかけて大内家臣・冷泉隆豊の指揮下で白井房胤や能美四郎、光井兼種らが中途島への攻撃を繰り返している(「白井文書」「山野井文書」「大内家御判物并奉書写 安富恕兵衛」)。
この頃、来島村上氏とみられる村上右衛門大夫(通康?)が、「能島」と「中途」の間を調停しようとしていた。この右衛門大夫の動きに対して冷泉隆豊は、まずは「中途衆」が周防国沿岸で行っている賊船行為を停止させるべきである、と書状を送っている(「村上謙之丞氏所蔵文書」)。能島村上氏は能島に拠る一族と中途島に拠る一族の二派に別れて対立していたことがうかがえる*5。
なお天文二十一年(1552)には、村上武吉が能島村上氏の当主として大内氏に扱われており(「大願寺文書」)、厳島合戦後の弘治二年(1557)四月の段階でも大内氏被官の立場だった(「屋代島村上文書」)。一方で天文二十四年(1555)十月の厳島合戦には「野嶋・来嶋両嶋加勢後巻」があったとされている(『萩藩閥閲録「遺漏巻二」』)。中途島の能島村上氏が加勢したものと考えられる。
能島・中途の争いと義益
近世の「譜録(村上図書)」に沿って考えるならば、義益は祖父隆勝、父義雅と同様に宮内大輔の官途名を名乗る能島系能島村上氏の嫡流であった。反大内の方針も祖父と父同様であり、この時点で能島村上氏の能島衆と中途衆の両者の立場も同じだったとみられる。
しかし村上掃部助ら親大内の庶子家が、大内氏の支援を受けながら武吉を擁立。義益らは敗れ、天文十六年(1547)四月までに能島から没落したと考えられる。これにより、親大内氏の能島衆と反大内氏の中途衆の間で対立が生じ、来島村上氏の村上右衛門大夫が調停を行う事態となったとみられる*6。
参考文献
- 山内譲 「海賊衆の成立」 (『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』 平凡社選書 1997)
- 山内譲 『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』 講談社 2005
- 桑名洋一 「二つの能島村上氏−天文期争乱に関する一考察−」(四国中世史研究会 編 『四国中世史研究 第十六号』 2021)
*1:「譜録(村上図書)」には武吉は慶長九年(1604)八月二十二日に72歳で死去したとあるので、逆算すると天文二年(1533)の生まれとなる。
*2:忽那島周辺には,、応永十二年(1405)以前には能島村上氏の勢力が及んでいた。同島の「能島衆先知行分」が忽那通紀に与えられている(「忽那家文書」)
*3:武吉を支援した村上隆重は、後に大内義隆から厳島において京堺商人から駄別料を徴収する権益を与えられている。
*4:天文十六年(1547)四月、厳島神主の佐伯景教が、能島にやって来ている(「大願寺文書」)。景教は藤原広就を滅ぼした後に大内氏が新たに厳島神主とした人物。
*5:康正二年(1456)五月の史料に「能嶋両村」とある(「東寺百合文書」)。能島村上氏には元々二つの系統が存在していた。
*6:村上右衛門大夫と同一人物と考えられる村上通康は、中途島能島村上氏とは縁戚筋にあたる。通康の母は村上吉堅の娘とされているが(「大濱神社棟札」)、村上吉堅は伊予河野氏の被官で、中途島能島村上氏の系譜の人物と考えられている。