戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

冷泉 隆豊 れいぜい たかとよ

 大内家臣。冷泉興豊の子か。元豊、元満の父。仮名は五郎。官途名は左衛門尉、後に大夫判官。初め隆祐と名乗った。

安芸武田氏との戦い

 安芸国では大永二年(1522)頃から大内氏と安芸武田氏との抗争が激化していた。そんな中、大永七年(1527)三月から五月にかけて、冷泉五郎隆祐(後の隆豊)は、安芸国沿岸部の武田方の拠点である仁保島城と府中城(国府城)を攻撃。隆祐郎党らが多数負傷したことを、野田興方が報告している(「冷泉家文書」)。

 仁保島は当時は広島湾に浮かぶ独立した島であることから、隆祐は警固衆を率いていたものと思われる。大内方の攻撃の結果、仁保島城の白井膳胤らは寝返った。しかし白井備中守が篭る府中城は、享禄元年(1528)七月に至っても抵抗を続けている。

 天文四年(1535)七月、冷泉左衛門尉隆豊に大内義隆から長門国大津郡日置荘兼行保30石の知行が宛行われた(「冷泉家文書」) 。この時点では隆祐から隆豊に名乗りを変えている。「隆」は大内義隆からの偏諱で、「豊」は冷泉興豊家の通字とみられる。

 天文十年(1541)五月、安芸武田氏の本拠・佐東金山城が陥落。安芸武田氏は滅亡した。同年に隆豊は金山城督となっており(「策彦入明記」天文十年九月一日条)、戦後処理や地域行政を担当したものと思われる。

出雲遠征

 天文十一年(1542)、大内義隆の出雲遠征が始まる。九月五日、隆豊の部隊は出雲国中海に浮かぶ大根島で尼子方と交戦。複数の首級を挙げる活躍により、義隆から感状を得ている(「冷泉家文書」)。同日の合戦には安芸国仁保島の白井房胤の部隊も参加しており、隆豊同様の戦果を挙げている(「岩瀬文庫所蔵文書」)。

 しかし尼子氏の本拠地・富田城は落ちなかった。翌天文十二年(1543)五月、大内軍は出雲国から退却。大内義隆の養子、晴持が死亡するなど尼子方に大敗した。

瀬戸内海での戦い

 出雲遠征後間もない天文十二年(1543)十二月二十三日、「与州表」で海戦があり、呉衆・山本房勝の戦功を隆豊が注進している(「萩藩閥閲録」山本宇兵衛)。隆豊は大内氏の上層家臣として、房勝ら警固衆を指揮する立場にあったと推定される。

 その後も隆豊の指揮のもと、伊予海域への軍事行動が展開された。天文十五年(1546)二月十六日、白井房胤が伊予国平智島を攻撃し(「成簣堂文庫所蔵文書白井文書」)、同年八月十五日には光井兼種能美四郎能島村上氏の拠点・伊予国中途島を攻めている(「大内家御判物并奉書写 安富恕兵衛」「山野井文書」)。

 中途島では翌天文十六年(1547)五月八日にも白井房胤が攻撃を加えている(「岩瀬文庫所蔵文書」)。隆豊はこれら各将の戦功を大内氏奉行人に注進している。

 なお伊予国中途島に拠っていたのは、村上義益能島村上氏の反大内勢力であったとみられる。彼らは本拠の能島を追われながらも、抵抗を続けていた。年未詳九月、隆豊は村上右衛門大夫(通康か)に対し、「中途衆」による周防国沿岸部への賊船行為を停止させるよう要請している。

御供衆となる

 天文年間、隆豊は大内義隆の推挙により、将軍の「御供衆」となった。御供衆は奉公衆よりも一つ格上の将軍側近集団とされる。父の冷泉興豊が加賀に所領を持つ奉公衆・大内氏にルーツを持っていたことと関係があるのかもしれない。

大寧寺の変

 天文二十年(1551)八月から九月にかけて起こった大寧寺の変では、大内義隆に従った。義隆一行は長門国瀬戸崎から船で脱出しようとしたが、風が悪く断念。同国大寧寺に移った義隆は、ここで切腹した。隆豊も同寺で切腹あるいは討死したという(「萩藩閥閲録102-2)。享年は39歳と伝えられる。

隆豊の文芸活動

 天文六年(1537)十月、大内義隆筑前国筥崎宮に和歌を奉納している。この時の奉納和歌懐紙には、義隆と「正四位下行右中弁藤原朝臣惟房」(万里小路惟房)、「参議正三位藤原朝臣基規」(持明院基規)につづき「従五位下左衛門少尉多々良朝臣隆豊」(冷泉隆豊)の和歌が載せられている。

 隆豊の後には楽人の大神景範、大内氏被官の平賀隆宗、源興宗らが和歌を詠んでいる。彼らは筥崎宮に詣でて和歌を奉納したものと思われる。

参考文献

  • 須田牧子 「加賀の大内氏について」(山口県地方史研究会・編 『山口県地方史研究 第99号』 2008)
  • 中司健一 「大内氏当主側近層の形成と展開」(鹿毛敏夫・編 『大内と大友−中世西日本の二大大名−』 勉誠出版 2013)
  • 川添昭二 「太宰大弐大内義隆」(『中世九州の政治・文化史』 海鳥社 2003)
  • 安芸府中町史 資料編』 1977
  • 愛媛県史 資料編 古代・中世』 1983

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大寧寺大内義隆終焉の地と伝えられる場所に並ぶ宝篋印塔群。手前の宝篋印塔は冷泉隆豊の墓と伝えらえる。

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大寧寺経蔵跡。冷泉隆豊が奮闘の末に自害した場所と伝えられる。

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山口県岩国市周東町祖生の冷泉氏館跡。築城年代は不明だが、冷泉隆豊の館との伝承を残す。

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吉海町の亀老山展望台から眺めた来島海峡。画面中心の小島が中途城が築かれた中渡島。大内方の水軍は隆豊指揮の元、中途島への攻撃を繰り返した。