安芸白井氏当主。縫殿助。光胤の子。房胤の父。武田氏被官だったが、後に大内方に寝返った。
家督相続
永正十七年(1520)とみられる年、膳胤は若狭武田氏の家督を相続した武田元光に対し、太刀や銭を進上。同年七月、元光から祝儀として太刀が贈られている(「岩瀬文庫所蔵白井文書」)。
大内方との戦い
大永二年(1522)から、安芸武田氏に対する大内氏の攻勢が本格化。武田方に属する安芸白井氏の仁保島に対し、三月、大内方の多賀谷武重らの警固衆が攻撃を仕掛けている(『閥閲録149』)。
その後、少しの間があったものの、大永六年(1526)には仁保島の対岸の府中城が大内・大友連合軍の攻撃を受けた(「房顕覚書」)。翌大永七年(1527)三月から四月にかけても仁保島や日地島(現、比治山)、府中城を大内軍、大友軍が攻めていることが確認される(『閥閲録』102-2、「一万田文書」)。
大内方への寝返り
大永七年(1527)四月二十四日、膳胤は大内方に寝返った。大内義興からは恩賞として周防国熊毛郡小周防内300石、安芸国佐東郡北庄300貫、同郡牛田75貫の給付が約束された*1(「岩瀬文庫所蔵白井文書」)。同日、一族の白井彦七郎にも大内氏からの知行給付が約束されている。以後、安芸白井氏は大内方警固衆の一翼として、武田氏を苦しめることになる。
天文七年(1538)十二月、大内義隆が膳胤から白井弥四郎房胤への相続を了承する安堵状を発給している。(「岩瀬文庫所蔵白井文書」)。この頃、家督を息子房胤に譲って隠居(あるいは死没)したものと思われる。