戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

舞草房安刀(畠山六郎猫俣切害仕たる刀) もくさふさやすのかたな

 平安中期の陸奥国の刀工舞草房安が製作したとされる刀。畠山重保がこの刀で猫又を切り殺したとの伝承を持つ。室町期、石見国益田荘を本拠とした国人領主益田氏が足利義政より拝領したとして、家宝としていた。

猫俣切害仕たる刀

 江戸時代前期、益田氏ではこれまで毛利氏に進上した道具のリストである「進上道具覚書」を作成する(「益田家文書」860)。この「進上道具覚書」の中で「舞草房安刀 一腰」について以下のように記されている。

元就様へ全鼎(益田藤兼)ヨリ進上致し候。元就様より全鼎へ下され置候御誓紙相見申候。
此の刀は、東山義政(足利義政)公方ヨリ先祖左馬助兼堯(益田兼堯)拝領仕候。其以後惠林院義伊(足利義伊)公方御代ニ、全鼎父伊兼在洛仕候處、伊勢守貞宗伊勢貞宗)、貴殿御先祖、先年義政公ヨリ御拝領之舞草之刀承及候、一覧仕度之由、所望付而、入披見候處、畠山六郎(重保)猫俣切害仕たる刀之由申伝候と、貞宗も申され候。
右之刀、 元就様へ差上候節、刀之由緒御尋遊ばされ候に付而、(吉川)元春公迄、右之次第書付を以申上候事、

 「舞草房安刀」は、室町期に益田兼堯が当時の将軍足利義政から拝領したことで益田氏に伝わった。その後、足利義伊(義稙)の時代に益田伊兼(藤兼の父)が上洛していた際に、故実に通じた伊勢貞宗から見せて欲しいと所望される。伊兼がこれに応じたところ、「畠山重保*1が猫又を切り殺した刀」との伝承があることを貞宗に教えられたという。

 なお18世紀末の寛政年間に刊行された『古刀銘尽大全』には、陸奥国安房の項に、「承平頃、舞草氏、菅原トモ打、房安トモ」とある。承平は平安時代中期(931〜938)。舞草鍛冶が製作した刀剣は、現在も静嘉堂文庫や一関市博物館、岩手県立博物館などに所蔵されている。

益田兼堯の奮戦

 「舞草房安刀」は将軍足利義政から益田兼堯が拝領したものと伝えられているが、実際に兼堯は義政から太刀を拝領していることが「益田家文書」で確認できる。

 寛正元年(1460)十二月、幕府と敵対する畠山義就南河内嶽山城に盾籠る。これに対し幕府は細川成之細川勝元の一族)や山名是豊(山名宗全の子)、大和衆の成身院光宣・筒井順永らを差し向けた。

 この時、益田兼堯も動員されている。兼堯は寛正二年(1461)六月十二日、河内国切山の合戦で敵を討ち取り「太刀一腰〈正恒〉」を遣わされており、同年八月二十八日には嶽山城搦手での合戦時に自身や親類・被官人数人が負傷する働きをしたことで義政から「「太刀一腰〈友成〉」と「馬一疋〈青毛〉」の褒美を得ている。

 結局、嶽山城は寛正四年(1463)四月、成身院光宣の計略によって陥落。義就は高野山に逃れ、さらに光宣らの追撃を受けて吉野に逃れたという。

益田氏の対毛利外交

 前述のとおり、益田藤兼の代で「舞草房安刀」は毛利元就に献上される。その経緯は同時代の文書からも知ることができる。

 天文二十三年(1554)に安芸毛利氏が周防大内氏から離反した際、益田氏も毛利氏と敵対関係になった。しかし毛利氏が防長経略を優勢に進める中、弘治三年(1557)三月にいたり益田藤兼は吉川元春(元就の次男)を通じて毛利氏への服属を表明する。

 ところが益田氏との交渉は吉川元春の独断であったらしく、この和談の報告を受けた毛利元就は「驚入候」「益田を和談候事ハ言語道断之義にてあるへく候」と激怒。益田氏と敵対する津和野の吉見氏が毛利方として奮戦している最中での事態であり、元就は大至急で吉見氏に釈明を行うよう家臣児玉就秋に指示している(『萩藩閥閲録』巻84)。

 ともかくも和談がなった益田氏であったが、毛利氏は吉見氏との友好関係を重視しており、益田氏との関係は微妙なものだった。そんな中、永禄六年(1563)三月に益田藤兼は家宝の「舞草房安刀」を毛利元就に献上する。

 これには元就も喜び、三月二十四日、益田氏との仲介役を担う吉川元春に対し、「祝着之段更不及言語候」と述べている。さらに翌二十五日、元就は元春への書状に以下のように記している。

益田藤兼対我等懇切無二之覚悟候、然間為可彼顯心底彼重代刀〈舞草房安〉給候、真実芳情之段更以不知所謝候。仍拙者事近年無等閑雖申談候、当世習候間、於被残疑心者口惜儀候条、重畳心中之通申達度候處、令得如比之次企一決告文候、可有御伝達候、長久可申談候之条本望之至候、猶以而悉皆申述候間不及筆舌候、恐々謹言、

 元就は藤兼が重代の刀である「舞草房安」を献上したことについて「真実芳情の段、さらにこれを謝するところを知らず候」と高く評価し、益田氏への疑心が残っていたことが口惜しいとまで述べている。

 上記の元就とのやりとりとの結果、三月二十七日、元春からは藤兼に対し以下のように伝えられた。

就貴家元就父子別而被仰談重畳御内意之通蒙仰候、具ニ申聞候、殊御家数代被成御秘蔵一腰〈舞草房安〉被遣候、誠御懇意之段更難謝之由候、忰家ニ可令秘蔵之由被申候、左候間対御方様元就忰心底既以誓紙被申入候、向後之儀猶以長久御深重被仰談可被成御入魂候。(後略)

 益田藤兼が献じた「舞草房安」は毛利氏で秘蔵することを約束し、誓紙を発給して益田氏との盟約を固めることとなったことが分かる。

参考文献

島根県学務部島根県史編纂掛 編 『島根県史 8』 1929
国立国会図書館デジタルコレクション

*1:鎌倉時代初期の人物。畠山重忠の嫡子。