石見国最西部の津和野盆地に位置した市町。石見国西部では益田氏とならぶ有力国衆であった吉見氏の拠城・三本松城の城下町でもあった。周防、長門、石見の三国を結ぶ交通の要衝として栄えた。
吉見頼行の下向
鎌倉期の弘安五年(1282)、吉見頼行が幕府に海岸防備を命じられて能登国から海路で石見西部に入部し、一本松城(後の三本松城)を築いた。津和野は石見吉見氏の本拠地となって以降、勢力を拡大していく同氏の下で発展した。
中世の市町
吉見氏は慶長五年(1600)、毛利氏に従い津和野を去る。その後の江戸初期に行われた検地記録には「今市」に44軒の屋敷があることが記されている。津和野に発展した市場町が形成されていたことが分かる。
実際、今市周辺の中世後期の遺構からは、中国から輸入された磁器や備前焼などの日常雑器が発見されている。津和野の市町が中世にさかのぼって繁栄していたことがうかがえるとともに、各地から物品が集まっていたことことを示している。
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吉見氏は室町期には「三島守」を名乗って朝鮮に使者を派遣。図書を受け取っていた。このため、萩などの日本海沿岸の所領を通じて日本海水運に何らかの形で関わっていた可能性が高い。
瀬戸内海沿岸との交流
また吉見氏は、安芸国廿日市の有力者・糸賀宣棟とも親交があった。津和野から安芸西部に抜ける山間ルートを通じて、瀬戸内海沿岸部とも密接な交流・流通があったとみられる。津和野周辺で生産された紙が、廿日市に供給されていた可能性も指摘されている。
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参考文献
- 秋山伸隆 「室町・戦国期における安芸・石見交通」 (『史学研究』218 1997)