長門国阿武郡の深い入江で天然の良港である須佐湾に面した港町。戦国期、毛利氏直轄の海関が置かれた。
石見益田氏の海上活動
永禄十三年(1570)二月九日、益田藤兼が子の元祥に譲る所領の一覧を記した「益田藤兼譲渡所領一書」に、「長州」の所領の一つとして「須佐・三原両郷」がみえる。ただ注記に「不知行」とあり、この時点では喪失していた。これら益田氏長州領の多くは、同じ石見国衆の吉見氏の知行となっている。
益田氏は自前の水軍で物資の輸送を行い、見島や博多近辺に所領を持って流通に深く関わっていた。年不詳だが、益田氏の一族・益田兼貴が肥前平戸の松浦隆信に大賀主計允(大賀氏は三隅湊を本拠とする家臣)を使者として派遣しており、これに対し隆信は「江崎・須佐両津」へ船を登らせる旨を伝えている。須佐は益田氏の海上活動において西方の要となる港であったのかもしれない。
毛利氏の海関
その後、須佐の港は毛利氏の直轄港となった。永禄七年(1564)八月十三日、毛利氏の山口奉行・市川経好は、温科吉左衛門尉の持船3艘のうち1艘について、駄別、船前、帆数などの役を免除することを赤間関、肥中関、通関、須佐関、温泉津 関の奉行に告げている。このうち、須佐を除く四関は毛利氏直轄の関であることが確認されており、須佐も同様に直轄関であったことが推定される。
なお須佐の属す阿武郡は吉見氏の一円支配地域だった。その中にあって須佐が直轄関であったことは、毛利氏の要港支配に対する強い姿勢とともに、須佐の日本海航路に占める重要性をうかがわせる。