旧山陽道の市町。東西条四日市と本郷・三原の中間に位置し、江戸期には間宿(あいのしゅく)として栄えた。現在の広島県竹原市田万里町。
街道の市町
年未詳十二月八日付安国寺恵瓊・穂田元清等連署奉書に、毛利氏から平賀元相に「田万里市」が返付されたことがみえる(「平賀家文書」)。戦国期の田万里には市場が形成されていた 。
また天正三年(1575)三月二十七日、伊勢参詣の途上にあった島津家久が、「さいちやうの四日市」(西条四日市)を経て「玉利(田万里)の町」を通過したことが日記にみえる(『中書家久公卿上京日記』) 。田万里が街道上の町場であったことが分かる。
なお家久は西条四日市から田万里の間の峠越えの際、17人もの「女めくら(女盲)」たちの列とすれ違っている。彼女たちは「七十一番職人歌合」(室町期成立)などにみえる女旅芸人としての「女盲」だろうか。
平賀氏の田万里進出
田万里村は安芸国沼田郡沼田新荘のうちで、室町期は沼田小早川氏に属す小田氏の支配下にあった。康正三年(1457)五月、周防大内氏の軍勢が「たまりと申所」に侵攻するなど(毛利家文書」)、沼田小早川氏領の境目にあって外部勢力の脅威にさらされた。応仁の乱後は高屋(東広島市高屋町)の平賀氏が田万里村に進出を試み、沼田小早川氏と激しく争った。
平賀氏は永正年間には田万里村の支配を固めたらしい。田万里八幡宮が所蔵する永正七年(1510)の棟札によれば、平賀弘保が大檀那となり、平賀頼次を代官として田万里八幡宮の造営が行われている。弘保は天文年間にも入野や白山の番匠たちを動員して八幡宮の造営を行っている。