戦国日本の津々浦々 ライト版

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釈迦十六羅漢図(妙義寺所蔵) しゃかじゅうろくらかんず

 島根県益田市曹洞宗妙義寺が所蔵する全十七幅の軸装作品。紙本著色で、寸法は各縦64.0センチメートル、横33.0センチメートル。一幅には釈迦如来を、残りの十六幅には十六羅漢の尊者たちを一人ずつ描く。全幅の画面上部には、「雲甫」あるいは「艮止」の落款を伴う賛が記されている。

妙義寺の由緒書

 16世紀後半、益田藤兼・元祥父子によって益田の妙義寺の中興が図られた。妙義寺が所蔵する「釈迦十六羅漢図」は、この時に招聘された大寧寺長門国深川)住持の関翁殊門が施入したものと考えられている。

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 この妙義寺の創建から中興および「釈迦十六羅漢図」施入までの歴史は、寛文二年(1662)に妙義寺住持・来応盤撮が記した妙義寺の由緒書(「妙義寺由緒書上」)から知ることができる。

 盤撮の「妙義寺由緒書上」によれば、妙義寺は益田氏の祖とされる藤原国兼*1から13代目の秀兼(法名帯幸)が建立したとされる。ただし秀兼の時代、一次史料には益田兼家(法諱周兼)が見えるという*2。兼家は永徳三年(1383)に祖父兼見から嫡孫に定められて益田氏当主となり(「益田家文書」61)、室町幕府や石見守護山名氏と良好な関係を築いたことが知られる。

 この時期、妙義寺については応永三十年(1423)十一月十三日の年紀を持つ「妙義禅庵寄進田畠并名田以下注文」がある(「妙義寺文書」)。また文安三年(1446)に下兼成が妙義寺に田を寄進した文書もあり(「妙義寺文書」)、15世紀前半には妙義寺の存在が一次史料で確認できる。

妙義寺の中興

 その後、16世紀後半の益田藤兼の時代に妙義寺の再興が図られる。「妙義寺由緒書上」によれば、藤兼は石屋派の親長老のもとに参禅したとされ、彼が禅宗の石屋派に帰依していたことがうかがえる。

 石屋派は14世紀半ばに薩摩国の伊集院忠国の子として生まれた石屋真梁を祖とする。石屋真梁は京都の南禅寺に学び、中国から来朝した東陵永璵から石屋の道号を与えられた。その後、薩摩に帰り、福昌寺の開山となり、同寺は西国の曹洞宗の中核寺院として重きをなしたとされる。なお、長門国大寧寺*3周防国闢雲寺などは石屋を開山としている。

 また益田藤兼は、元亀二年(1571)に大義女の、天正二年(1574)に崇寿女の菩提を弔うために、妙義寺に田を寄進している(「妙義寺文書」)。この時期、妙義寺への帰依も深めていたことがわかる。

 そして天正九年(1581)三月、「妙義寺并門中禁法之事」が定められ、黄山殊梅(実際の妙義寺住持*4)、益田元祥、益田藤兼、関翁殊門(大寧寺住持)が連署している。益田藤兼から嫡子元祥への本格的な家督相続はこの頃と推定されており、藤兼も実際に出家したとされる。

 大寧寺住持の関翁殊門については、天正九年に益田藤兼の法号「大薀」の字義を記した文書に「皆総持現大寧石屋(石屋真梁)十五世竹居(竹居正猷*5)一嫡蝸角子関翁杜□書」とあり、総持寺の住持も務めていたことが分かる。益田藤兼・元祥父子は、石屋派の流れをくみ、旧大内氏領国および周辺の曹洞宗の中核的寺院であった大寧寺から高僧を招くことにより、妙義寺の中興を図ったことがうかがえる。

十六羅漢図の施入

 前述の寛文二年(1662)作成の妙義寺由緒書(「妙義寺由緒書上」)には、関翁殊門による妙義寺中興について以下のような記述がある。

関翁殊門妙義寺之為中興、記ニハ唐涅槃像・十六羅漢・鏧一口・御位牌、并為入位牌料銀子弐百文目被遺候、其時全鼎より書物云、

 妙義寺中興にあたり、「唐涅槃像」「十六羅漢」「鏧一口」「御位牌」「入牌料銀子弐百文目」が妙義寺に施入されたとする。続けてその際に発給されたとする天正十二年(1584)正月十一日付の全鼎・元祥の連署寄進状が引用されている。この連署状は現存しており、以下のように記されている(「妙義寺文書」)。

大寧寺十五世関翁大和尚(関翁殊門)、当寺可為中興之通申談候之処、則御位牌并仏具以下調被遣候、殊為入牌料銀子弐百文目施入候之条、三段之地至尽未来際令寄進候訖、仍為亀鏡一筆如件、

 すなわち、大寧寺十五世の関翁和尚を妙義寺の中興として招きたいと申し入れたところ、位牌と仏具などを関翁が用意された。そして入牌料として銀子200文目を施入し、三段の地を寄進するとある。仏具についての具体的な記述は無いが、少なくとも、寛文二年(1662)の由緒書作成時には、このときに十六羅漢図が施入されたと認識されていたことになる。

 なお「釈迦十六羅漢図」の箱書には、以下のように記される。

当山中興関翁大和尚御寄進焉
 于時延宝二天寅六月廿八日
羅漢像之絵箱万歳山妙義寺常住物
       住持比丘来応盤撮叟
  右表具之造作、壱幅ニ付銀子廿五匁宛

 「釈迦十六羅漢図」は中興である関翁の寄進とされていること、そして来応盤撮によって妙義寺由緒書が作成されてから12年後の延宝二年(1674)に表具が仕立て直されたことが分かる。表具修復の費用は一幅あたり銀子25匁であった。

高麗仏画の影響

 「釈迦十六羅漢図」の一幅「釈迦如来図」の図像は、静嘉堂文庫美術館所蔵の「苦行釈迦図」の図像を参照して描かれていると考えられている。また静嘉堂文庫美術館本は、高麗仏画である可能性が高いことが指摘されている。

 前述のとおり、「釈迦十六羅漢図」は長門大寧寺の関翁殊門によって妙義寺に施入されたと伝わるが、大寧寺と高麗との関わりを示す事例が他にもある。

 佐賀県佐賀市本庄町大字鹿子に所在する慶聞寺には、高麗王朝末期の至正二十七年(1367)銘を持つ「白紙金寺金剛般若波羅蜜経」が伝わる。この高麗写経は、慶長五〜七年(1600〜02)頃に、長門大寧寺第十六世の安叟珠養*6から、慶聞寺第三世の文応全藝に寄進されたものだという。

作者と賛者

 いくつかの特徴から、「釈迦十六羅漢図」の作者は16世紀の雪舟流画人と考えられている。制作年代は、妙義寺への施入時期が天正十二年(1584)の可能性があることをふまえ、天正十二年以前の16世紀中頃から後半にかけてと推定されている。

 賛には、賛者の署名として「雲甫叟」あるいは「艮止叟」との墨書がある。落款印は十七幅全て同じであるため、全て同一人物による賛とみられている。

 「雲甫」は保寧山瑠璃光寺第九世の「雲甫永岳」(?〜1598)に比定される。この禅僧は、周防の仁保の源久寺、養徳院、法雲寺など、瑠璃光寺の末寺の住職もつとめていたとされる。「艮止」については、養徳院の山号が「仏艮山」であったことに関係する可能性があるという。

 すなわち、「釈迦十六羅漢図」の賛者「雲甫」「艮止」は、保寧山瑠璃光寺第九世の雲甫永岳と同一人物であるとの考えが示されている*7

参考文献

【妙義寺】
天正九年(1581)、益田藤兼・元祥父子は妙義寺の寺法を定めるなど、大々的な中興を図っている。

*1:永久年間(1113~1118)に石見国司として赴任し、そのまま土着したとされる人物。

*2:益田兼家の法諱周兼の音が秀兼となり、実名として伝わった可能性が指摘されている。

*3:山口県長門市深川に所在。応永十七年(1410)に大内氏一族の鷲頭弘忠が石屋真梁を招いて創建されたと伝わる。大内氏の庇護も得て、大内氏領国およびその周辺の曹洞宗の中核的な寺院であった。

*4:天正十二年に元祥が全鼎(益田藤兼)の寄進物を安堵した文書の宛所に「妙義□□梅東堂」とあり(「妙義寺文書」)、これが殊梅を指していると推定されている。

*5:石屋真梁の弟子。薩摩国伊集院出身。

*6:「保寧の雲甫」(保寧山瑠璃光寺第九世の雲甫永岳)に謁し、その後大寧寺第十五世の関翁珠門の認可を受けた禅僧。

*7:「釈迦十六羅漢図」の賛は雲甫永岳が仏艮山養徳院にいたときに記された可能性が指摘されている。