石見国の有力国人益田氏の本拠地。益田川下流域の益田荘益田上本郷に位置する。石見国西部の政治・経済・文化の中心として栄え、益田川・高津川河口域の中須の湊、後に今市を港湾として日本海流通ともつながっていた。
南北朝期の益田上本郷の寺社
鎌倉後期、益田平野部は九条家とその縁者が益田荘の領主として知行していた。この時期、益田氏は益田川中流域の東仙道を本拠としていたが、南北朝の内乱期になって益田平野部へと進出する。
南北朝期の益田上本郷については、永徳三年(1383)の祥兼(益田兼見)置文からうかがえる(「益田家文書」853)。この置文の後半部には、「寺社事」として益田氏が大切にすべき寺社が多数書き上げられており、益田上本郷のなかで所在地を確定または推定できる寺社もみることができる。
臨済宗の崇観寺は、貞治二年(1363)に斎藤長者の妻直山妙超の発願により開かれたと伝わる。益田兼見は置文の中で崇観寺を、兼見が諸山にしたのであり、特に益田氏が大切にすべき寺院としている。
崇観寺は戦国初期には衰退し、後身寺院として医光寺*1を益田宗兼が再興したという。その医光寺には、崇観寺の本尊であった「木造釈迦如来坐像」が伝わっており、その胎内銘には応安四年(1371)に益田兼見が大檀那となって「石州崇観寺仏殿本尊」を造立したことが記されている。
萬福寺は置文では「御道場」と記されており、兼見が興隆のために奔走し「本道場」にしたという*2。萬福寺は応安七年(1374)十一月の創建で、創建時の兼見の寄進状と棟札が現存している。
なお兼見の寄進状には、兼見がその境内として寄進した土地の境界が以下のように記されている(「万福寺文書」)。
東限瀧倉前江 南限河下大溝 西限小畠西端ヨリ岡畠之岸 北限片山大道
この境界の範囲は、江戸期の萬福寺の境内絵図と合致しており、寄進状で南の境界とされた「河下大溝」は、絵図の南側に描かれた用水路にあてはまるという。したがって、この用水路(=「大溝」)は南北朝期には存在していたことが分かる。
また兼見は置文の中で、「瀧蔵・春日・八幡宮・惣社大明神」については「当所根本大社」として大切にするよう記している。
「瀧蔵」あるいは「瀧蔵権現」は現在の染羽天石勝神社であり、もともとは式内社で益田氏以前から崇敬を集めた神社だった。その別当である勝達寺は、同社の西側高台にあったが、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって廃絶してしまっている。泉光寺( 益田市昭和町)の「釈迦十六善神像」(南北朝時代)や極楽寺(神奈川県鎌倉市)の「木造不動明王坐像」(平安時代)は勝達寺の旧蔵であり、往時の繁栄がうかがえる。
春日社は現存せず、萬福寺門前に春日地名が残る。惣社大明神も現存しないが、永正元年(1504)二月三日付の益田宗兼置文写には惣社大明神について以下のように記されている(「妙義寺文書」)。
右、妙義寺山西境内ニ安置有之 軍八頭惣社大明神与申候而、武門守護之御霊社也、御祭日建久七年十二月十三日也、同志之祭儀必不可有怠慢者也
当時、惣社大明神は妙義寺境内にあった。益田宗兼はこれを「武門守護之御霊社」であるとして十二月十三日の祭礼を怠らないよう妙義寺に命じている。
妙義寺の初見史料は応永三十年(1423)のものとされる。一方で妙義寺付近には南北朝期の様式の五輪塔が複数存在することから、その一帯は南北朝期にはすでになんらかの宗教的空間であったといわれる。
このように、祥兼(益田兼見)置文にみえる所在地を確定または推定できる益田上本郷の寺社は、基本的に益田川の北側もしくは現在の妙義寺周辺に限られる。このことから、南北朝期以前のこの地域では、益田川の北側が先行して開発され、南側の開発が遅れていた可能性が指摘されている。
南北朝期の益田上本郷の城館
三宅御土居跡(益田市三宅町)については、12〜13世紀の掘立柱建物跡、木組井戸や遺物が発見されており、益田氏の進出以前からなんらかの政治的拠点があったと推測されている。永和二年(1376)の「益田本郷御年貢并田数目録帳」(「益田家文書」918)の「志目庭」(染羽)に「政所屋敷」と見えることから、益田庄政所であった可能性も指摘されている。
また南北朝期の七尾城は、益田川に面した尾根先の「尾崎丸」周辺に中心があったらしい。延元元年(1336)七月、南朝方の三隅兼連に率いられた周布郷内村地頭内兼茂が、益田兼行・同舎弟三郎・乙吉十郎らが盾籠る「益田城」を攻撃し、同月二十一日に「北尾崎木戸」を攻め破ったと報告している(『萩藩閥閲録』巻121)。
当時の七尾城は益田川を見下ろし、その水運を押さえると同時に、対岸の益田川北側の地区ににらみをきかせることを企図した山城であったと推測されている。
なお鎌倉期の文永六年(1269)には益田本郷で「津料浮口」が徴収されていた(「益田金吾家文書」)。「津料」は入港料、「浮口」は流通課税で流通する物資の十分の一程度が徴収されたとみられる。当時すでに益田川を使った河川水運が活発に行われていたことがうかがえる。
益田川の南側
永正三年(1506)二月、益田宗兼は惣大夫に対し、瀧蔵権現、浜八幡(櫛代賀姫神社)、乙吉(乙吉八幡宮)、祇園(大谷町野坂に所在か)、惣社、机崎(机崎神社)、今宮(妙義寺境内に所在か)の七社の神主職を安堵している(「原馨氏所蔵増野家文書」)。このうち瀧蔵権現、惣社、机崎、今宮が上本郷地域に所在し、祇園も広い意味での上本郷地域に含まれる。
益田川の南側(左岸)に形成された七尾城の城下町は、妙義寺門前から北北東に延びる道と、これに現在の暁音寺の東南で交差する七尾城跡と三宅御土居跡を結ぶ道が基軸となって城下建設が進められたと考えられている。
明治十年(1877)頃の「益田本郷地籍図」によれば、妙義寺門前から北北東に延びる道と七尾城との間には、「上犬ノ馬場」「下犬ノ馬場」の字名が確認できる。この地区では犬追物(いぬおうもの)が行われていたと推測されている。本来、犬追物は武芸訓練であったが、室町期はデモンストレーションの場としての性格を持つようになった。
永正年間、大内義興とともに上洛していた益田氏は、たびたび大内氏や室町幕府の重臣らと犬追物に参加している(「犬追物手組日記」)。これ以前にもたびたび益田氏は上洛しており、特に15世紀中頃の当主兼堯は、長禄四年(1461)から寛正六年(1466)にかけて在京している(「益田家文書」113)。これらのことから、この上下の「犬ノ馬場」は、益田氏が15世紀後半から16世紀前半のいずれかの時期に整備したものと推測されている。
上記の妙義寺門前から北北東に延びる道は、順念寺・暁音寺の前をとおる。貞享三年(1686)十一月の暁音寺の棟札によれば、暁音寺は天正五年(1577)の創建だが、もとは別の場所にあり、慶長七年(1602)に大久保長安が石見銀山奉行として益田に下向してきた際に、増野甲斐の屋敷跡への移転を許されたという。
増野甲斐守は実名を護吉といい、益田藤兼・元祥の側近的存在として活躍した人物。道の付近にある順念寺や妙法寺も同様の経緯をたどったとするならば、中世の時代のこの地区には家臣団の屋敷が建ち並び、益田氏が須佐に移封された際、残された屋敷跡地が寺町になったと考えられるという。
七尾城跡と三宅御土居跡をつなぐ道には、「暁音寺の鍵曲がり」と呼ばれる食い違いに屈曲する地割を残す。江戸期には益田は城下町ではなかったので、わざわざ鍵曲がりを作る必要性は薄く、中世以来のものと推測されている。鍵曲がりが存在していたことからも、この道は益田上本郷の益田川南側の基軸となる道だったとみられる。
七尾城の改修
益田氏の拠城である七尾城は、前述のとおり南北朝期には尾根崎の「尾崎丸」周辺が中心だったが、16世紀後半に山塊全体を使用した城郭になったと推定されている。天文二十四年(1555)の厳島合戦で益田氏と姻戚関係にあった陶晴賢が敗死しており、益田氏は安芸毛利氏との緊張の中で七尾城の大改修を行ったといわれる。
江戸初期と考えられる「全鼎(益田藤兼)領地覚書」(「益田家文書」巻85)には、以下のような記述がある。
御城山滝尾之南大手之曲輪ニ一ヶ年及御隠居候而、其間ニ山(または正)路之御普請成就仕、彼地被成御引越、十年及御座候て、天正十七年ニ三隅之大寺へ御引越、八年被成御座、慶長元年極月朔日ニ御六十八歳ニて被成御逝去候事、
これによると、益田藤兼は天正七年(1579)に「御城山滝尾之南大手之曲輪」で隠居し、翌八年に「山(または正)路」の普請が終わると引っ越し、10年間暮らしたという。「山(または正)路」が何を指すのかは不明だが、七尾城本丸やニの段を指す可能性があるという。
七尾城跡の発掘調査により、本丸曲輪の北端部(二の段からの入り口部分にあたる)に瓦葺きの櫓門があったことが分かっている。
そして本丸曲輪の南端には礎石建物があった。建物の南側は、土塁と高さ12メートルの深い堀切で防御されており、重厚な櫓門を通過して至る城の最深部の大型建物となっている。遺構からは生活具に加えて大量の土師質土器の皿と、非日常的といえる土器製香炉や翡翠釉小皿、美濃天目茶碗、古瀬戸瓶子などが見つかっており、遺構および遺物の状況から領主の居住空間であったと考えられている。
本丸曲輪の北には、約1メートル低い全長約80メートル、幅15〜20メートルの二の段曲輪が連続する。曲輪の北寄りで、曲輪を横切る東西方向に約15メートルにわたって幅50センチメートルの石組みの溝を検出。この区画溝の北側で礎石の一部が確認され、東西に2棟の建物が並んで存在していたと考えられている。
また東側建物の北側に接して、1間×1.5間の石組み区画の内側に、5〜8センチメートルの平らな砂利を等間隔に丁寧に敷き詰めた遺構が発見されている。この砂利の化粧敷き区画は、建物に付設された小規模な庭園(茶庭か)と考えられている。さらに、西側の建物の北からは不整形の土坑が検出されており、庭園の池として使われた可能性があるという。
遺構からは1000点あまりのやきものが出土。土師質土器の皿が約840点あり、やきもの全体の83.1パーセントを占める。中国陶磁は21点あり、青磁が比較的多い。威信財的な青磁盤や白磁壺があり、茶庭との関連性も考えられる中国製の天目茶碗も出土している。
七尾城の西麓には、益田川の旧河道を利用した堀(内堀)が造られた。発掘調査により、堀幅16間程度であったことが判明している。七尾城北端の尾崎丸付近から益田川を引き込んだ比較的浅く、流れのある小川状を呈していたと推測されている。
三宅御土居
年月日未詳の小国彦兵衛輯録「牛庵様御代覚書」(「益田家文書」「益田市誌」)によると、天正十一年(1583)から12年かけて、増野甲斐守と宅野不休庵を責任者として三宅御土居の改修が行われたという。
三宅御土居の東西には、現在も土塁が残り、長さは東土塁87メートル、西土塁53メートル、高さは東西ともに約5メートルの規模。調査の結果、土塁の周囲には堀が廻っていたことも判明している。東西の堀の幅約9メートル、深さ約3メートルの断面台形状の箱堀が検出されたのに対して、北側の堀は最大幅約16メートル、深さ約1.5メートル、落ち込み斜面は比較的緩やかなうえ、階段状の加工が施されていた。
これらの調査結果から、堀を含めた館の規模は東西190メートル、南北110メートルに及ぶことが明らかとなり、北東端が北側に突出する不整形を呈するものの、概ね1町×2町を志向した館であることが判明している。
堀と土塁に守られた屋敷地内では、3期にわたる遺構が確認されており、第1期は12〜13世紀、第2期は15世紀頃、第3期は16世紀頃とされる。
このうち、遺構がまとまって検出されたのは第3期だった。たとえば鍛冶にかかわる施設と推測される礎石建物跡が検出されており、2間×半間以上の規模で、周辺から石敷き面が検出されたうえ鞴の羽口や鉄滓が出土している。また5間×4間の総柱建物跡や石積み井戸跡なども見つかっている。
第3期は他の時期と比較して建築物の種類は多様で、施設が機能分化し、館の整備が進んでいた状況をうかがうことができる。
城下町の発展
天正十九年(1591)正月の「石見美濃郡益田元祥打渡検地目録」には、益田本郷において「本郷市屋敷銭」が20貫469文、「今市屋敷銭」が2貫330文が挙げられており、「本郷市」「今市」の存在が確認できる(「益田家文書」349)。このうち「本郷市」は15世紀以前から成立していたと推測されている。
前述の明治十年(1877)頃の「益田本郷地籍図」によれば、益田川南側には益田川の流れに沿ったかたちで、「上市川平」から「下市川平」あたりまでの弧を描くように折れ曲がった道がある。この道は上市・中市・下市という字名の側を通っており、この街路の両側に本郷市は形成されていたとみられる。
益田本郷からあがる「市屋敷銭」は慶長四年(1599)にはさらに増加しており、同年十一月の「石見美濃郡益田元祥領検地目録」には本郷市・今市の合計が54貫600文と記載されている(「益田家文書」354)。一方で天正十九年には存在していた美濃郡庄内の横田市や津毛郷の「市」が慶長四年にはみえなくなる。町人が周辺の町から益田に流入している状況がうかがえる。
この時期は益田氏被官の城下への集住も進んでいた。慶長初年の頃と考えられている「益田家於石州被官中間書立写」には「城廻之衆」 として被官 245、中間75が記され、その中には鍛治や染師、畳職人など益田氏直属職人もみえる。
今市と日本海水運
本郷市と並んで益田本郷に存在した今市は、出土遺物の発掘調査結果から16世紀前半に成立し、益田氏の防長移転後、急速に衰微したことが推定されている。このことから、益田氏当主権力に直結した新興商人集団の拠点であったと考えられている。
地名や地形からの推定によれば、江戸初期には今市まで海が入り込んでおり、ここが益田本郷の港湾機能を担っていたと思われる。
日本海から入ってきた物資は今市で川舟に積み替えられ、益田川を遡って七尾城や三宅御土居、本郷市に荷揚げされたと考えられる。益田氏は水運に積極的に関わったことで知られ、前述のとおり居城の七尾城からも多量の輸入陶磁器が見つかっている。これらの物資は今市を経由してもたらされた可能性がある。
関連交易品
参考文献
- 井上寛治 「三宅御土居と益田氏」
- 光成準治 「有力国人と地域社会-石見益田氏を中心に」 (『中・近世移行期大名領国の研究』 校倉書房 2007)
- 中司健一 「中世益田上本郷の発展過程についての試論」(鹿毛敏夫 編 『戎光祥中世史論集 第6巻 戦国大名の土木事業 中世日本の「インフラ」整備』 戎光祥出版株式会社 2018)
- 木原光・松本美樹 「益田氏城館(三宅御土居・七尾城跡)の構造」(中世都市研究会 『日本海交易と都市』 山川出版社 2016)
- 中司健一 編集・執筆 佐伯昌俊 執筆 『全国山城サミット開催記念特別展「中世益田の山城」』 益田市・益田市教育委員会 2024


益田川に接する尾根は「尾崎丸」と呼ばれ、益田川の水運を押さえ、益田川北側の地区ににらみをきかせることを企図した山城だったと推測されている。

七尾城の西尾根の先端は尾崎丸とよばれる。延元元年(1336)に南朝方の三隅勢は「益田城」を攻めて「北尾崎木戸」が破っており、七尾城西尾根が南北朝期の「益田城」だったと推定されている。


厩の段と帯曲輪によって囲まれ、防御が固められていたとみられる。

馬釣井の名称は大手口から上がってきた馬に水を飲ませたことによるという。


北端には茶庭とみられる庭園が付設された礎石建物があったことが確認されている。


二の段の入り口にあたる北端には瓦葺きの櫓門があり、南端には礎石建物があったことが発掘調査により分かっている。



慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、益田元祥が長門須佐に移住し、七尾城が廃城となった際、同城の大手門を移築したものと伝えられる。
本柱、冠木ともに太く、戦国末期の豪壮な城門の姿を残す貴重な建造物とされる。

天正九年(1581)に益田元祥が大檀那となって再建された。国指定重要文化財。

瀧蔵権現の別当寺であった勝達寺に旧蔵されていた。現在は極楽寺(神奈川県鎌倉市)の所蔵。
島根県立美術館の企画展「石見の祈りと美―未来へつなぐ中世の宝―」の看板を撮影

応安七年(1374)、益田兼見が大檀那となって建立された。国指定重要文化財。

萬福寺墓地にある五輪塔。益田兼見とその父兼方の墓塔が並ぶ。鎌倉後期の様式で御影石製。兼見は南北朝期の当主。益田本郷の支配を固め、萬福寺や崇観寺、瀧蔵権現などの寺社創建に関わったといわれる。

萬福寺周辺には南北朝期の様式の五輪塔が複数残るという。


七尾城跡の中腹にある。天正四年(1576)正月、「住吉明神」が益田元祥によって妙義寺境内に勧請されており、同社は江戸期に現在の場所に移された。

創建年代は不明だが、応永三十年(1423)の史料に初めて登場する。天正九年(1581)、益田藤兼・元祥父子は妙義寺の寺法を定めるなど、大々的な中興を図っている。

妙義寺の門前に立っている。益田兼堯は文明十七年、菩提寺妙義寺の塔頭である大雄庵で死没したという。

七尾城麓の桜谷にある。塔身2mを超える大型五輪塔であり、鎌倉末期の14世紀初めごろまで遡ると推定されている。現在の神戸市御影で産する御影石で作られている。

益田水源地のあたり。同水源地改修工事に伴う発掘調査によって堀幅16間程度の内堀があったことが判明した。

暁音寺は天正五年(1577)に創建され、その後慶長七年(1602)に増野甲斐守屋敷跡である現在地に移った。 境内地南端部分に山門と鐘楼があり、そこに接する市道は「鍵曲がり」になっている。これは中世城下町の防御遺構、または近世の参詣道が暁音寺を迂回したためともいわれる。

中世の本郷市もこの道沿いに形成されたと推定されている。





乙吉川の川べりに石垣が約39メートル続く。石垣自体は江戸期以降に造られたもの。

今市は現在に至るまで大きく改変されることなかった。広い中央の道を境に東西に町が分割される。短冊状に区切られた町割にそって小路があるという中世によくみられる市町の形態をよく残しているとされる。